第十号・名前がついた夜に
名前のつく雨、名前を呼べない夜
十三日の晩からや。関東の空が、えらいことになってな。千葉に雨雲がべったり張り付いて、動かんかった。夜のニュースで『線状降水帯』言うてね、朝になったら千葉市の一日の雨の量が、八月一か月分の三倍超えとった。……この二日前、十一日の晩には台風十五号が茨城に上陸しとる。統計取り始めた昭和二十六年以降、茨城に台風が上陸したんは初めてやそうです。二日おいて、また記録。今年の夏は、記録という字を何回書かされるんやろな。……そんで、十五日の時点で亡くなった人が九人。行方が分からんままの人が、一人。千葉市若葉区の、七十五のおじいさん。九人の名前は、もう新聞に出とる。一人だけ、まだ名前の続きが分からんままなんです。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこの『名前をつけた』というところに、まず目を留めるんですよ。ええですか、気象庁が大雨に固有の名前をつけるいうのは、めったにあることやないんです。今度で『令和八年八月千葉豪雨』。名前がついた大雨災害は、二〇二〇年に熊本を襲った『令和二年七月豪雨』以来、たった二例目なんですよ。名前をつけるいうのはね、葬式で戒名をつけるのと似てましてね。生きてる間はただの雨や台風で済むもんが、これだけの人が亡くなると、もう固有名詞で呼ばな収まりがつかんようになる。名前がつくいうのは、それだけの重みがあったということです。軽々しくつけるもんやない。これは間違いないんです。
戒名、な。……重たいこと言うわ、あんた。でもまぁ、その通りやろな。……俺はな、行方の分からん七十五のおじいさんのことを考えとってね。バーやっとると、年寄りの常連が何人かおるんですよ。足の悪い人もおる。避難しろ言われても、この歳で夜中に外へ出る決断が、どれだけ怖いか。若い時分は分からんかったけど、この歳になってようやく分かってきましたわ。逃げる、いうのは体力と勇気の両方が要る仕事なんです。……九人と一人の間には、たぶん、たいした差はない。運と、あと少しの時間と、たったそれだけの差やったんちゃうかな。
上岡龍太郎 そこは僕、もう一歩踏み込んで言いますよ。運やない、仕組みの問題です。ええですか、二十二万人超に避難指示や緊急安全確保が出た言うても、その二十二万人の中に、七十五の一人暮らしのおじいさんが本当に届く形で届いとったか、いう話なんです。避難情報いうのはね、工事現場の看板と一緒でね。『避難してください』とだけ大きく書いてあっても、こっちがどこへ、どうやって、誰と行けばええか書いてなかったら、老いた体はその場から一歩も動けんのですよ。看板を立てた側は義務を果たした顔をする。動けんかった側だけが、責められる。そこがおかしいんです。台風の上陸も、この豪雨も、記録ずくめやった。記録ずくめの年やからこそ、届け方まで記録を更新せなあかんのです。決まってるんです。
届け方まで記録を更新、か。……ほんまやな。……今夜、うちの店の常連にも千葉の人間が一人おってね。電話で無事は聞けたんやけど、実家のほうがどうなっとるか、まだ分からん言うとった。何も飲まんと、ただ喋って帰っていきよったわ。……そういう夜も、あるんです。捜索は、まだ続いとる。行方の分からんおじいさんの名前が、早う、悲しい形でのうて分かる形で見つかることを、祈るしかないな。今日はそれだけにしとくわ。
九人の名前は決まった。残る一人の名前を、まだ誰も呼べずにいる。
支持率は横ばい、答弁の背中は消えた
時事通信が八月六日から九日にかけてやった世論調査でな、高市内閣の支持率が四十八・四パーセント。先月から〇・六ポイント下がったけど、まぁ横ばいや言うてええ数字やそうです。三か月連続の下落らしいけど、下がり方は緩い。……で、面白いのは中身でね。予算委員会への首相の出席時間がえらい減っとって、それを『適切やと思わへん』言う人が三十七・八パーセント、『思う』の三十一・四を上回っとる。首相は『要請があれば誠実に答弁してきた』と繰り返しとるらしいけどな。……これ、俺には身に覚えのある話でね。うちの店にも、呼んだら来るけど自分からは来ん常連がおるんですよ。『呼んでくれたら行くで』言われてもね、こっちは毎回わざわざ呼ばなあかんのが、もうしんどいんです。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はここではっきり言うときますよ。『要請があれば行く』というのはね、僕の流儀とはいちばん遠い言葉なんです。僕はずっと『断定する勇気を持て』とやってきた男でね。決断できる人間いうのは、聞かれる前に、自分から前に出る人間のことです。麻雀の卓でも一緒でね、自分からリーチをかけずに、相手の捨て牌ばっかり見て安全牌を守っとる打ち手は、勝ってるように見えて、実は誰にも信用されへんのですよ。予算委員会に出るか出んかを、要請の有無で決めるいうのは、つまり自分の意志で決めてへん、いうことです。八月十日の番組でも、首相官邸と自民党の間に『すきま風』が吹いとる言われとったでしょう。すきま風いうのはね、扉をきちんと閉めてへん証拠なんです。開けとくんか閉めるんか、そこも決めてへん。これはもう、姿勢の話なんですよ。
すきま風、な。……ただな、上さん。俺はちょっとだけ弁護もしとくとね。支持率、調査するとこによってバラバラなんですよ。NHKは五十三、時事は四十八点四、別のとこは四十五点四。三つとも同じ月に同じ首相を調べとるのに、これだけ数字が散らばる。……人間かて、こっちから見たら頼りない親父でも、あっちから見たら頑張っとる親父に見えることがあるやろ。数字も似たようなもんでね、どこから測るかで、ずいぶん人相が変わってくるんです。まぁ、それでも一個だけ動かん事実があってな。熊本の地震対応は評価が高い言うとった。動いた時は、ちゃんと評価されとるんですよ、この人。
上岡龍太郎 それは僕も認めますよ。動いた時は評価される。せやからこそ、動かん時との落差が目立つんです。ええですか、熊本の対応がまともに評価されとるいうのは、この人に能力がないという話やない。むしろ逆です。できる人間やからこそ、国会の答弁みたいな、面倒でしんどいところから逃げる姿だけが余計に目立つんですよ。僕に言わせればね、政治家の仕事の九割は、面倒くさいことに自分から出ていくことです。答弁は面倒です。野党の追及は面倒です。せやけどそこへ自分から出ていく背中を見せんことには、支持率いうのは数字だけの話になって、信用にはならんのです。四十八点四か五十三か、そんなもん本質やない。国会の椅子に座っとる時間の長さのほうが、よっぽど嘘をつかへんのです。間違いないんです。
椅子に座っとる時間、な。……手厳しいわ、あんた。……まぁ、俺にも耳が痛い話でね。俺も締め切りから逃げて、酒場のカウンターの向こうに隠れとった口やから。呼ばれな出てこん常連の気持ちも、ちょっとは分かるんですよ。……ただ、逃げとる間も、店の時計だけは律儀に動いとるいうのが、しんどいところでな。……まぁ、次の国会でどう座るか見せてもらいましょか。知らんけどな。
支持率の数字は横ばいでも、答弁席の椅子の温度だけは、静かに冷めていく。
無敗の横浜が恐れる、退屈という敵
甲子園、三回戦が十五、十六日と続いてね。三重が優勝候補の一角やった履正社を五対二で下したり、天理が九年ぶりに八強へ入ったりと、伝統校がバタバタ倒れる大会になっとるんですよ。天理なんか三点差を九回にひっくり返しての、逆転勝ちやったそうな。……そんな中で、優勝候補筆頭の横浜だけは、まだ無傷で勝ち上がっとるらしい。ネットでは『横浜に勝てるとこなさそう』言うて、みんな半分諦めムードやそうです。……俺はな、こういう『一人だけ無傷』いう状況を見ると、なんや落ち着かんのですよ。バーでもたまにおるんです、朝まで飲んでも顔色一つ変わらん化け物みたいな客が。ああいうのを見ると、こっちのほうが先に酔いが冷めよるんですよね。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はその『無傷』というのを、いちばん危ないサインやと思てるんです。ええですか、麻雀でもゴルフでも一緒でね、ずっと勝ち続けとる人間の周りは、だんだん静かになっていくんですよ。負けた相手が愚痴を言わんようになる。ヨイショだけが残る。本人はそれを『実力』やと勘違いする。せやけどね、いちばん強い状態いうのは、いちばん退屈と隣り合わせの状態でもあるんですよ。天理が九回に三点差をひっくり返したいうのはね、追い詰められた側にしか出てこん火事場の力です。無傷の横浜には、まだその火事場が回ってきてへんだけなんですよ。夏の強豪は疲れとる、いう言い方があるでしょう。連戦の疲れは、本人が『大丈夫です』と言うてる時がいちばん怖いんです。決まってるんです。
火事場の力、な。……そうかもしれんな。俺はこの前、常連同士が甲子園の話で賭けをしとるのを横で聞いとってね。『横浜で決まりや』言う奴と、『いや分からんで、夏やから』言う奴とおって。分からんで、言うた奴のほうが、なんや余裕あるように見えましたわ。無傷のほうに賭けるんは簡単やけど、無傷のほうを応援するんは、案外しんどいんですよ。負けたら『やっぱりな』言われる側やから。……天理みたいな、ボロボロになって勝ち上がるチームのほうが、見とって楽しいのは、たぶんそういうことなんやろな。
上岡龍太郎 それはね、応援する側の心理としては正しいんです。ただ僕はもう一つ足しときたい。強豪が伝統校を次々に破ってる、いう見方が広まってますけどね、あれは半分違うんですよ。強豪校いうのは元々、一年通してレベルの高い相手とばっかりやっとる。夏の大会でいきなり格上に見える県立校が出てくると、経験の少なさで浮足立って、逆に足元をすくわれる。番狂わせいうのは、弱い側が強うなったんやのうて、強い側が『格下や』と油断した瞬間に生まれるんです。ティッシュペーパーと一緒でね、使い捨てにできると思うた瞬間、こっちの手のほうが滑るんですよ。横浜が今のところ無傷でおるいうのは、まだその瞬間が来てへんだけの話です。十八日の準々決勝で、それが来るか来んか。話はそれだけですよ。
油断した瞬間にすくわれる、か。……そら、酒場の商売とも似たようなもんやな。繁盛しとる店ほど、味を落としても客が気づかんと思い込んで、そこから潰れていく。……まぁ、横浜がどこまで無傷でいけるか、十八日を楽しみにしとこか。俺は判定はできんけど、乾杯くらいはどっちにでもしたるわ。知らんけどな。
無傷のまま勝ち続けることは、案外、いちばん孤独な戦い方かもしれない。