RAMO & KAMIOKA WEEKLY 第13号 / 2026-09-06

第十三号・まだ数えている途中の夜に

本号のテーマ 其の一 国際・ネパール土石流 / 其の二 経済・最低賃金 / 其の三 社会・クマ緊急銃猟
其の一 ・ 国際・ネパール土石流

九日ぶりに、二人だけ出てきた

今週の一面 8月26日にネパールと中国の国境地帯で起きた氷河・岩盤の崩落による大規模な土石流で、9月4日、ラスワ郡の国営水力発電所のトンネル内に閉じ込められていた技術者2人が発生から9日ぶりに救出された。救出されたのは30代のサンジャイ・シャハさんと40代のカビル・マハルジャンさんで、シャハさんは「私の責任は皆の命を守ること。自分1人だけ逃げるわけにはいかなかった」と語り、仲間の避難を優先した結果、自らの脱出機会を失っていた。トンネル内には40〜45人が閉じ込められていたとみられる。犠牲者は日を追って増え続けており、4日時点でネパール側の死者は1294人、行方不明は5053人、中国側と合わせた死者は1318人を超え、行方不明は5500人を上回ると伝えられている。捜索・救助活動は難航している。 出典: 時事通信時事通信AFPBB News
中島らも 中島らも

先週この席でネパールの話をしましたやろ。ヒマラヤの氷が崩れて、谷を水が下ってきた話です。あれの続きが四日に入りましてね。……発電所のトンネルの中から、二人、生きて出てきました。九日ぶりです。三十代のシャハさんと、四十代のマハルジャンさん。二人とも発電所の技術者やった。……で、俺が新聞読んどっていちばん手が止まったのはね、シャハさんが後で言うた言葉です。『私の責任は皆の命を守ること。自分一人だけ逃げるわけにはいかなかった』と。……つまりこの人は、逃げられる時間があったんですよ。あったのに、人を先に出しとって、そのあいだに道が塞がった。トンネルの中には四十人か、四十五人おったらしい。……九日ですわ。九日いうのは、こっちの九日と、あの中の九日と、たぶん全然ちがう長さやと思います。

上岡龍太郎 上岡龍太郎

らもさんはそう言うけどね、僕はこの一件を『奇跡』という言葉で片づけるのだけは、断固として反対しますよ。ええですか、あの二人が出てきたのは、掘った人がおったからです。九日間、機械を入れて、瓦礫をどけて、崩れる危険のあるところへ人が入っていった。誰かの手が動いた結果でしょう。それを奇跡と呼ぶのは、掘った人間に対して失礼なんです。……それともう一つ、こっちのほうが大事でね。合格発表の掲示板を思い浮かべてごらんなさい。番号があった子は、その場でカメラに囲まれる。泣いて、抱き合うて、それが夕方のニュースに出る。……その横をね、番号のなかった子が、黙って駅のほうへ歩いていくんですよ。カメラはそっちを一遍も向かへん。今度の映像もそれと同じ構造です。二人が出てきた絵は世界中に流れた。同じ日に、五千人がまだ見つかってへん。決まってるんです、見えるほうだけが記録に残る。

中島らも 中島らも

掲示板の横、な。……俺はな、入院しとった時に、病棟に時計がなかったんですよ。正確に言うと、俺の手元になかった。腕時計は預けさせられるし、部屋にも掛かってへん。ほんで最初の何日かは、自分が何時間ここにおるのか全然わからんようになった。飯が来たら朝で、また飯が来たら昼で、それだけです。……で、不思議なもんでね、時間がわからんようになると、こっちは数えるのをやめるんやのうて、逆に、しつこく数え出すんですよ。今のは何回目の消灯やったか、いうのを指で数える。数えとかんと、自分が溶けてしまう気がするから。……あのトンネルの中の人らも、たぶん数えとったと思うんです。何回目の暗さか、と。……その数えとった数と、外の新聞に出とる『九日』いう数字が、合うとったかどうかは、誰にもわからん。

上岡龍太郎 上岡龍太郎

そこで僕は、外に出とる数字のほうの話をしときたいんです。ええですか、死んだ人が千三百人を超えた。行方の分からん人が五千人を超えとる。……この五千という数字はね、たぶん一生、確定せんのですよ。谷ひとつぶんの土砂の下にあるものを、全部掘り返すことは物理的にできません。せやから何年か経つと、この災害は『死者何人』という一行になって、五千のほうは括弧の中に入る。そのうち括弧も消える。……それともう一点、これは言うときます。あそこにあったのは水力発電所です。電気を作る場所でしょう。人間が山から力を貰おうとして建てた建物が、山が緩んだせいで潰れた。緩ませた熱は、あの谷が出した熱やない。……取りに行った場所と、ツケが落ちた場所が同じやったんです。皮肉やのうて、これは構造なんですよ。間違いないんです。

中島らも 中島らも

……取りに行った場所に、そのまま落ちた、か。……重たいなあ。……マハルジャンさんの奥さんが、『食べることも眠ることもできなかった』言うとりました。九日間です。あの人はたぶん、旦那さんの九日と、自分の九日と、両方をいっぺんに生きとったんやろな。……で、こう言うたらなんですけど、俺はこのニュースを読んで、正直、少しほっとしたんですよ。ずっと数字が増えるだけの話やったところに、はじめて引き算のほうの知らせが来たわけやから。……ほっとしてええんかどうかは、わからん。五千人ぶんの家族は、まだ同じところに立っとるわけやから。……今夜はカウンターの灯りを、いつもより一つ多めに点けときます。掘っとる人らのほうが、まだ暗い中におるんでね。

生きて出てきた数は二。まだ数えている途中の数は、五千。

其の二 ・ 経済・最低賃金

五十六円上がって、線は動かない

今週の一面 厚生労働省は9月3日、2026年度の地域別最低賃金の改定額が全47都道府県で答申されたと発表した。全国加重平均は1177円で、前年度の1121円から56円の引き上げとなる。過去最大の引き上げだった25年度の66円からは伸び幅が縮んだものの、国が示した目安(55円)は上回った。引き上げ額は都道府県により54円から65円まで幅があり、33府県が中央最低賃金審議会の目安を上回った。答申額が最も高いのは東京都の1280円、最も低いのは宮崎県の1085円で、その差は195円。改定額は都道府県労働局での異議申し出手続きを経て、10月1日から12月2日にかけて順次発効する。 出典: 日本経済新聞厚生労働省時事通信
中島らも 中島らも

三日に、最低賃金の答申が四十七都道府県ぜんぶ出そろいました。全国の平均が千百七十七円。去年が千百二十一円やったから、五十六円上がる。去年は六十六円上がっとるんで、上がり幅そのものは少し落ちついた、いうことです。十月から順に効いてくる。……で、細かいこと言いますとね、いちばん高いのが東京の千二百八十円、いちばん低いのが宮崎の千八十五円。差が百九十五円あります。……この百九十五円いうのを、俺はちょっとどう考えたらええかわからんでおるんですよ。同じ一時間ですやん。同じ日本で、同じ一時間立って働いて、住んどる場所が違うだけで、二百円近く違う。……まぁ、家賃が違う、物の値段が違う、いう理屈は知っとります。知っとるけど、腹に落ちるかというと、別の話でね。

上岡龍太郎 上岡龍太郎

らもさんはそう言うけどね、僕が引っかかるのはそこやないんです。ええですか、そもそも『最低賃金』という言葉でしょう。これ以下で人を雇うたら法律違反です、という線のことです。……その線が二十円上がった、いや五十六円上がった、去年より伸びが鈍った、と国じゅうで大騒ぎしとるわけです。それはつまりね、その線のすぐ上に、ぎょうさん人が立っとるということなんですよ。線の話が生活の話になってしまう国は、それだけで一遍反省せなあかん。……体重計の話をしますとね。目盛りのほうを付け替えて、六十キロが五十五キロと表示されるようにしたら、痩せたことになりますか。ならんでしょう。ところが賃金の議論は毎年これをやっとる。上げた額は発表される。同じ年に、米と卵がなんぼ上がったかは、隣の部屋で発表される。同じ紙に並べたら、誰も『過去二番目の上げ幅』とは書けんはずなんです。決まってるんですよ。

中島らも 中島らも

同じ紙に並べたら、な。……俺はな、二十代の頃に印刷会社で肉体労働しとったでしょう。あの頃、自分が時給なんぼで働いとるか、一遍も計算したことがなかったんですよ。日給でもろとったし、そもそも計算する頭がなかった。……で、面白いもんでね、その頃はそれで別に不幸やなかったんです。同じ工場のおっさんらと、仕事が終わってから安いビール飲んで、それで一日が締まっとった。……今はみんな、自分の一時間がなんぼか、きっちり知ってしまう時代でね。知るのはええことです。ええことなんやけど、知ってしもたら、飲みに行く一時間も勘定に入ってしまうやろ。……うちの店に来る子でね、時給が上がったと嬉しそうに言うた次の月に、シフトを減らされた子がおりましたわ。店のほうも、そら払える上限があるからね。上がった分だけ、時間が削られる。あれ、誰が悪いんかようわからんのですよ。

上岡龍太郎 上岡龍太郎

わからんことはない。それも構造です。ええですか、僕は経営者の肩を持つ気も、労働者の肩を持つ気もありません。ただ事実だけ言いますとね、最低賃金を上げるいうのは、払う側にとっては『同じ人を雇うのが高うなる』という一点なんです。せやから、まともな商売人ならまず時間を削る。次に人を減らす。それでも足らんかったら店を閉める。順番はもう決まっとるんです。……傘の話をしましょか。雨が降ってきたから、みんなに傘を配ります、と国が言う。ええことです。ところがその傘代を出すのは、雨に濡れとる店主のほうなんですよ。傘は増えた、濡れとる人も増えた。……ほんまに要るのは、傘の本数を毎年発表することやのうて、なんでこの国はこんなに雨が降るようになったんですか、という話でしょう。そっちを二十年やってへんから、毎年おんなじ九月に、おんなじ会議をしとる。間違いないんです。

中島らも 中島らも

なんでこんなに降るようになったか、な。……上手いこと言うわ。……まぁ、俺は数字にはとんと弱い男でね。五十六円が多いのか少ないのか、正直よう判断がつかん。ただ、この店で千百七十七円いうたら、うちの安いほうのハイボールがだいたい二杯です。時給まるまる使うて二杯。……そう言い換えると、なんや急に、身に沁みてくるでしょう。数字いうのは、そうやって何かに置き換えた瞬間だけ、ちょっとだけ本当のことを喋りよる。……十月から順番に効いてくるそうです。効いた月の給料明細を見て、『あ、ほんまに増えとる』と思える人が一人でも多いことを、俺は勝手に願うとりますわ。……まぁ、その頃には物のほうも上がっとるんやろけどな。知らんけどな。

線が動いたことは報じられる。線の上に立っている人の数は、報じられない。

其の三 ・ 社会・クマ緊急銃猟

撃つと決めるのに、四十三時間

今週の一面 市街地に出没したクマを自治体の判断で猟銃により駆除できる「緊急銃猟」制度が2025年9月に始まって1年が経ち、2026年8月末までに14道県で計81件が実施されたことが分かった。実施は冬眠前でクマの活動が活発になる10〜12月に集中しており、最初の適用は2025年10月の仙台市。都道府県別では山形が19件で最多、次いで新潟14件、岩手・富山が各8件と、東北・北陸に集中している。一方で課題も浮かんでおり、福島県郡山市では住民の避難や夜間に対応できる捕獲者の確保に手間取り、最初の目撃から発砲の許可までに約43時間を要した例があった。捕獲経験のない自治体ではノウハウと人手の不足が指摘され、環境省は研修や「ガバメントハンター」の育成支援を進めている。 出典: 時事通信時事通信環境省
中島らも 中島らも

重い話が続いたんで、最後は少し肩の力を抜いて聞いてください。……いや、抜けるかどうかは怪しいんやけど。……去年の九月から『緊急銃猟』いう制度が始まりましてね。街の中にクマが出た時に、市町村の判断で猟銃を撃ってええ、というやつです。それがちょうど一年経って、十四の道と県で八十一件やったそうです。いちばん多いのが山形の十九件、次が新潟の十四件、岩手と富山が八件ずつ。東北と北陸に固まっとる。……で、面白いのはね、いちばん最初にこの制度を使うたのが仙台市なんです。街ですよ。県庁所在地です。……俺らが子供の頃に習うたクマは、山の奥におって、鮭を捕っとるもんやったでしょう。あれが今は、駅から歩いていける距離に出てくる。……何かの境目が、いつのまにか引き直されたんやろな。

上岡龍太郎 上岡龍太郎

らもさんはそう言うけどね、僕がこの記事でいちばん唸ったのは、件数やないんです。福島の郡山でね、最初にクマを見つけてから、実際に撃つ許可が出るまでに四十三時間かかった、という一行ですよ。……四十三時間。丸二日ですわ。住民を避難させて、夜に撃てる人を探して、順番を踏んどるあいだにそれだけ経った。……ええですか、この四十三時間は、誰も怠けてへんのです。全員がちゃんと仕事をした結果、四十三時間かかった。そこが恐ろしいんです。……マンションの廊下の電球が切れた時と一緒でね。管理組合に言うて、業者に見積もり取って、理事会にかけて、そうやって三週間、廊下は暗いままです。誰も悪いことしてへん。手続きは全部正しい。ただ、暗いんですよ。……で、電球は逃げませんけどね、クマは歩きよる。四十三時間のあいだ、あれはどこにおったんですか。そこを誰も引き受けてへんのが、この国のいちばん弱いところなんです。

中島らも 中島らも

四十三時間、どこにおったか、な。……俺はな、若い頃に山ん中の安い温泉宿で、えらい飲んだことがあってね。夜中に酔い覚ましに外へ出たんです。街灯もない、月だけの晩で。……そしたら、どこか近いところで、息の音がしたんですよ。ふーっ、ふーっという。俺はその時、生まれてはじめて、自分が食い物になりうる生きもんやということを思い出しましてね。……で、正直に言いますとね、逃げながら思たのは『出てきよった』やなかったんです。『こっちが入ってきとったんやな』のほうやった。……あれが熊やったかどうかは、いまだに知りません。鹿かもしれん。ただ、あの晩から俺は、山を『行くところ』やのうて『誰かが住んどるところ』やと思うようになりました。……ほんで今は、その誰かのほうが、こっちの駅前まで来とる。どっちが引っ越したんかいう話ですわ。

上岡龍太郎 上岡龍太郎

そこは僕、はっきり言いますよ。引っ越したのは人間のほうです。ええですか、山と街のあいだにはね、昔は畑があって、薪を取る林があって、人がしょっちゅう出入りしとった。あの帯が緩衝地帯やったんです。ところがそこに住んどった人が減って、畑が藪になった。誰も歩かんようになった道は、三年で獣の道になります。……つまりクマが降りてきたんやのうて、人間が引いた線のほうが、ずるずる後退したんですよ。……それでね、いちばん言いたいのはここです。線が下がったら、撃つ役目も一緒に下がってくるでしょう。昔は山で猟師がやっとったことを、今は市役所の職員が住宅地でやらなあかん。それがどれだけ無茶な話か。八十一件のうしろには、判子を押した課長が八十一人おるんです。撃って苦情が来るのも、撃たんで怪我人が出るのも、全部その人にいく。……そら四十三時間かかりますわ。手続きが遅いんやない、責任の置き場所が決まってへんのです。決まってるんですよ、こういうのは決めた者勝ちなんです。

中島らも 中島らも

判子を押した課長が八十一人、な。……その八十一人のことは、たしかに誰も数えとらんかったな。……まぁ、俺はこの手の話になるとどうしてもクマのほうにも一杯やりたなるんですよ。あっちはあっちで、腹減って、匂いのするほうへ来ただけやろから。……とはいえ、うちの常連が犬の散歩の途中で会うたら、そんな悠長なことは言うてられん。両方に理があって、両方が一歩も引けんいうのが、いちばんしんどい種類の話でね。……秋です。これから十月十一月と、いちばん件数の増える季節に入ります。今年も八十一件のうしろで、誰かが夜中に電話を受けて、自分の名前で決めなあかんわけです。誰も褒めてくれん役ですよ。その人の分の酒は、うちで用意しときますわ。飲みに来られる時間があるかどうかは、知らんけどな。

山と街の境目は、地図には引かれていない。毎年、誰かが夜中に引き直している。

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