第十四号・喝が聞こえない日曜に
喝を入れる人が、いなくなった
九日の午後に、張本勲さんが亡くなりました。八十六です。……大田区の、自宅の近くに止めた車の中で見つかったそうで、事件でも事故でもないらしい。……で、俺が新聞で目が止まったのは、三千八十五本という数字やのうて、その横に小さく書いてあった一行でね。子供の頃の事故で右手に障害が残って、それで左打ちになった、と。……つまりこの人は、右で打てんようになった日から数えはじめとるんですよ。一本目から。三千八十五本ぜんぶ、あとから覚えた手で打っとる。……俺は物書きやから、やり直しのしんどさだけは少しわかるんです。書いた原稿を頭から捨てて、別の手で書き直す。あれ、一回やるだけで半年寝込みますで。それを一生ぶんやった人がおる、という話でね。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はあの人の打った数の話は、いったん置いときたいんです。僕が言うのは、日曜の朝のほうです。ええですか、あの人は何十年も、日曜の朝に出てきて『あっぱれ』と『喝』を言い続けた。……あれね、得な仕事やないんですよ。褒めたら甘いと言われる、叱ったら古いと言われる。どっちに転んでも文句が来る席に、毎週きちんと座り続けた。……銭湯の番台みたいなもんです。誰も番台に座ってくれとは頼んでへん。けど、あそこに人が一人座っとるから、みんな裸で好き勝手にしてても場が締まるんですよ。番台がのうなったら、あれはただの広い部屋になる。……十三日の朝、その席に落合博満が出てきて『あの一言がなかったら自分はプロ野球界に存在しなかった』と言うたそうです。番台の一言で人生が決まった人間が、現にそこに座っとるわけでしょう。あの席は要ったんです。決まってるんですよ。
番台の一言、な。……俺がしんどいなと思うのは、別のとこでね。あの人はずっと、広島の話をしとった人なんですよ。子供の頃に被爆して、お姉さんを亡くして、その話を講演でも本でも、何十年もしとった。……俺は自分が同じ話を二回するのが、どうにも嫌な性分でね。同じ酒場で同じ自慢話を二回したらもう終わりやと思て生きてきた。……けど、同じ話を一生しつづけるいうのは、あれは別の種類の仕事ですわ。毎回、いっぺん焼け跡まで戻らなあかんわけやから。……忘れたい話を、忘れんように何百回も口に出す。それを八十六まで続けた。……で、こういう人のことを、世間はたいてい打った数のほうで覚えるんです。それが悪いとは言わん。ただ、勘定に入ってへんもんが多いなあ、とは思います。
上岡龍太郎 そこは僕、数のほうから言いますよ。三千八十五本という記録はね、あの人が引退してから四十五年、日本のプロ野球では誰も抜いてへんのです。……ええですか、記録というのは抜かれるためにあるもんです。百メートルの記録は毎年削られる。ところがこの数字だけは動かん。なんでか。一年のあいだに打てる数には限りがあるからです。つまりこれは、上手いだけでは届かん記録なんですよ。上手くて、なおかつ毎年出続けた人間にしか積めん。……王貞治さんが十日に言うてました。同じ学年で、巨人で一緒に打線を組んだ人でね、昔の首位打者争いを振り返って『あれは獲らしてあげたかった』『本当に惜しいことをした』と。……ええ言葉やけど、僕にはこう聞こえましたよ。五十年前の、打率のいちばん下の桁の差を、八十六の人間がまだ覚えとるんです。あの世代の打者は、数字を記憶やのうて身体で持っとる。せやから軽々しく抜けんのです。間違いないんですよ。
……いちばん下の桁を、まだ覚えとる、か。……身体で持っとるんやろな。……俺はな、あの人の『喝』を、正直そんなにありがたがって見とったわけやないんですよ。日曜の朝にテレビの前で、なんやまた怒っとるなあ思て、味噌汁飲んどっただけです。……けどね、無くなってみると分かるもんで。あの声はたぶん、俺が今日は日曜やということを確かめるための音やったんですわ。柱時計と一緒でね、鳴っとるあいだは誰も聞いてへん。止まった朝に、はじめて静かやと気づく。……今夜は一杯、左手で持ちますわ。三千八十五本ぶん、あとから覚えた手のほうで。……上手いこと持てるかどうかは、知らんけどな。
日曜の朝に鳴っていた音は、止まってから聞こえる。
三年ぶりに、一メートル五十四
重い話のあとに、明るいのを一本いきましょう。……ブダペストで、やり投げの北口榛花さんが六十八メートル九十二を投げて優勝しました。日本記録です。前の日本記録が六十七メートル三十八で、それも本人が三年前に出したやつ。……つまり、三年かけて自分に追いついて、一メートル五十四ぶん、置いてきたわけです。……俺はやり投げいうのを一遍も真面目に見たことがなかったんですけどね、数字だけ眺めとって、ふっと手のことを考えましてね。あれ、槍を離す瞬間があるでしょう。持っとる時間はえらい長いのに、勝負は離したあとで決まる。手を離してから先は、もう本人にはどうにもできん。……あれはなんや、書いたもんを人に渡す時の感じによう似とるなあ、と。渡したあとはもう、こっちの言うことは一切聞かんのでね。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこの一メートル五十四という数字のほうに唸ったんです。ええですか、陸上の記録というのは、普通は削るもんです。百分の一秒、一センチを削って、それでも二年かかる。ところがこの人は、自分の記録を一メートル半ぶん、いっぺんに跳ね上げた。……これはね、練習を頑張りましたという話やないんですよ。フォームか、助走か、離す角度か、どこかをいっぺん壊して組み直した人間の数字です。……僕はゴルフを長いことやってますからね、これは身に沁みて分かる。スイングを直すいうのはね、途中で必ず下手になるんです。三ヶ月は前より悪いスコアが出る。そこで大抵の人間は元へ戻すんですよ。『前のほうがよかった』言うてね。戻した人間は、一生そのままです。……三年のあいだ黙って悪いスコアを出し続けられる人だけが、一メートル半ぶん先へ行く。決まってるんです。
三ヶ月は下手になる、な。……そらそやわ。……俺が感心したのはね、あの人が勝ったあとに言うた言葉の順番です。まず『すごくうれしいです』と、ちゃんと喜んどる。そのすぐあとに『まだ完璧じゃない』と言うとる。……この順番がええんですよ。先に『まだまだです』を持ってくる人は、たいてい嘘か、でなければ疲れとるかです。……俺はな、自分の書いたもんに『これでええわ』と言うのが早すぎる男でね。一行書いたら一杯飲んで、飲んだら『今日のところは傑作や』と思うことにしとった。次の朝に読み返したら、傑作はどこにもおらん。……二十八で『まだ完璧じゃない』と言える人の先は、そら長いですよ。うらやましい話やけど、まぁ、こっちはうらやましがる係でええ。
上岡龍太郎 そこで僕は一つ、日本のほうに文句を言うときます。ええですか、この記録は世界の歴代で十番目タイなんです。日本でいちばん遠くへ投げた人が、世界の順番では十番目。……ところが日本の見出しは『日本新記録』でしょう。あれで話が閉じてしまうんですよ。……祭りの櫓と同じでね。てっぺんまで登った子を村中で褒める。ええことです。けど、その村のてっぺんが、隣の山の中腹の高さやということは誰も言わん。言わんほうが気持ちええからです。……僕はこの人が言うた『まだ完璧じゃない』のほうが、よっぽど正しい物差しを持っとると思いますよ。本人は十番目を見とる。周りは一番目を見て喜んどる。……どっちが先へ行くかは、もう決まってるんです。
村のてっぺんが、隣の山の中腹、か。……まぁそう言われると耳は痛いけど、俺は今夜くらいは村の側におらせてください。八十六で亡くなった人の話を聞いた同じ週に、二十八の人が一メートル半先へ槍を放った、いう知らせが入ってくるんやから。ええ週ですやん。……やり投げいうのは、こっちへ戻ってこん競技でしょう。投げたもんは全部、前に置いていく。……俺の商売は、書いたもんが何十年か経ってから足元に返ってきよるからね。あれはあれで、なかなか怖いんですよ。……とりあえず、六十八メートル九十二のぶん、うちのいちばん遠い席に一杯置いときますわ。誰が飲むかは、知らんけどな。
日本でいちばん遠くへ投げた記録は、世界では十番目だった。本人だけが、その十番目を見ている。
時給百円は、体験のお代か
最後は、だいぶ腹の立つ話です。……読売が十二日に書いとりました。インターンシップ、いうやつですね。就業体験。あれで学生が安い労働力に使われとる、と。……都内の私立大の四年の子が、『マーケティングに携われる』いう募集で入ったら、やらされたのは電話営業やった。他の学生に就職相談を勧める電話です。時給千三百円のはずやったんが、成果でなんぼという仕組みで、週三日、三時間か四時間働いて、ひと月で五千円。時給に直したら百円ですわ。……九州大の三年の子は、就活の勉強会に行ったら集客のノルマを負わされて、友達に『ネズミ講みたい』と言われて、大学へ行けんようになった。……で、俺がいちばん引っかかるのは、金の額やのうて『体験』いう言葉です。俺は体験主義を看板にして生きてきた男やから、そこは黙っとれんのですよ。体験いうのはな、こっちが勝手に取りに行くもんです。人から『させてもらう』もんやない。まして、こっちが持ち出して買うもんやない。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はもう一段ドライに言いますよ。ええですか、これは良心の話やのうて、値段の話なんです。……同じ記事に数字が並んどりました。従業員三百人未満の会社の求人倍率が八・九八倍。五千人以上の会社が〇・三四倍。……つまり、小さい会社の側は人が来なくて困っとって、大きい会社の側は選び放題なんですよ。この二つの数字のあいだに、不安な学生が何十万人も挟まっとる。……見習いの寿司屋の話をしましょか。昔の見習いは、給料はないかわりに、飯を食わせてもらえて、寝るところがあって、何より板場が見えた。見えたから修業やったんです。……今度の話は、飯も出ん、寝るところもない、見えるのは電話機だけです。それを修業と呼ぶのは言葉の詐欺ですよ。……しかも厄介なことにね、これをやっとる会社は、法律を破っとるつもりすらないんです。『体験させてやってる』と本気で思とる。いちばん質の悪い種類です。間違いないんです。
言葉の詐欺、な。……それについては、俺は加害者側の席におった人間でね。若い頃、コピーライターいう商売をしとったでしょう。あれはつまり、人を動かす文字を書いて金をもらう仕事です。……『あなたの可能性が、ここで花開く』みたいな文字をな、書いたことがあるんですよ。書いとる本人は、一行も信じてへん。締め切りが来るから書いとるだけです。……で、あの手の文字はほんまによう効くんです。効いてしまうから恐ろしい。募集要項に『マーケティングに携われる』と書いたやつも、たぶん電話営業のことやと思て書いてへんのやろな。ほんまに携われると思て書いとるか、何も考えてへんかの、どっちかです。……どっちにしても、読んだ学生の一年は返ってこんわけで。……言葉で飯食う商売の、いちばん後ろ暗いとこですわ。
上岡龍太郎 そこで、いちばん大事なことを言いますよ。弁護士が同じ記事で言うとります。単純作業をさせとるんやったら、その学生は労働者です、せやから適正な賃金を払う義務がある、と。……ええですか、法律はもうあるんです。足らんのは法律やない、名前のほうなんですよ。……『インターンシップ』。このカタカナが免罪符になっとる。日本語に直してごらんなさい。『就業体験』。まだ綺麗です。もう一枚はがしてみましょか。『無給の試し使い』。……同じもんが、名前だけで三回顔を変えるんです。三回目の名前で募集を出したら、誰も来ませんよ。来んからカタカナで出しとるんです。……で、学生さんに言うときます。あなたが不安なのはよう分かる。けど、世の中には不安のほうを売り物にしとる商売があるんです。相手はあなたの将来やのうて、あなたの不安を買いに来とる。断りなさい。断る練習のほうが、あの電話営業より百倍役に立ちます。これはもう決まってるんです。
断る練習のほうが役に立つ、か。……上手いこと言うわ。……まぁ俺は、若い頃に人から言われたことを何ひとつ聞かんかった人間やから、偉そうなことは言えません。肉体労働しとった頃は、自分が何の役に立っとるかも考えたことがなかった。……ただ、あの手の仕事に一つだけ正直なところがあってね。運んだ荷の数は、誰が見てもわかるんですよ。ごまかせん。……時給百円の電話営業には、それがない。何本かけたかも、何が身についたかも、あとから誰にも見せられん。そこがいちばん惨いとこやと思います。……ひと月五千円やったら、この店で座って三杯ですわ。三杯で、週三日のひと月を買われたと思たら、そら腹も立つ。……そういう子がもし来たら、四杯目は俺が持ちます。就職の役には立たんけどな。知らんけどな。
体験は、させてもらうものではない。取りに行くものだ。