第十五号・水が引かない秋に
ひと月に二度、同じ土地が沈む
今週は、どうしてもこれからです。……二十一日に台風二十五号が関東に寄ってきて、伊豆大島では一日で六百五十ミリを超える雨が降った。千葉と神奈川で、これまでに十二人が亡くなって、四人の行方がまだ分からん。印旛沼では堤防が百メートルほど切れて、佐倉では三百棟くらいが床の上まで水に浸かった。……で、俺がいちばん黙ってしまうのはね、千葉は先月、八月にも豪雨でやられとるんですよ。ひと月前です。濡れた畳をやっと表に出して、壁の泥を拭いて、さあ乾かそうか、いうところへ、また来た。……新聞に住民の人の言葉が出とりました。『どこから手をつければ』と。……あれはな、嘆きやのうて、ほんまに分からんのやと思いますよ。片付けの途中で、片付ける場所がもう一回水の下になる。人間の段取りいうのは、そういうふうには出来てへんのです。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はその『どこから手をつければ』を、住民やのうて、行政と僕ら全員に向けられた問いやと思て聞いたんです。……印旛沼いうのはね、江戸の昔から人間が手を焼いてきた沼なんですよ。享保のころから、田沼意次のころ、水野忠邦のころと、何べんも干拓や掘割の工事が試みられて、洪水やら政変やらでそのたびに頓挫してきた。戦後になってようやく水門と機場で水位を抑え込むようになった。……ええですか、つまりあの沼は、三百年かけて人間が手懐けたつもりになっとる猛獣なんです。檻は立派になった。けど檻の強さというのは、中の獣がいちばん暴れた日を基準に決めてあるんです。その日の記録を、今年は何べん塗り替えられましたか。基準のほうが古うなっとるのに、檻は昔の寸法のままや。これは天気のせいやない、寸法の問題なんです。
檻の寸法、な。……そうかもしれん。……俺はもう一つ、引っかかっとる記事があってね。袖ケ浦で、道路を直しとった人が、重機ごと川に落ちたそうです。台風の最中に、壊れた道を直しに出とった人です。……こういう時はな、みんな逃げる側の話をするでしょう。避難したか、せんかったか。けど、逃げる人の反対向きに歩いていく人らが、必ずおるんですよ。道を直す人、電気を戻す人、行方の分からん人を探す人。……俺は若い頃、夜中に人が寝とる間に働く仕事をちょっとだけしたことがあってね。ああいう仕事は、うまいこといった日には誰にも気づかれへん。気づかれるのは、しくじった日と、こういう日だけです。……今は、その人らの無事と、まだ見つかってへん四人のことを考えるくらいしか、俺にはできへんな。
上岡龍太郎 そこは僕、はっきり言うときますよ。ひと月に二度、同じ県がやられたということはね、二度目はもう『災害』やのうて『宿題』なんです。……一度目は不意打ちです。誰も責められん。けど二度目は、一度目の答案が返ってきたあとの試験なんですよ。八月の豪雨のあと、どこの堤防を見て回ったか、どこの排水を点検したか、仮置きの土砂や瓦礫はどこへ置いたか。それを一つずつ、県も国もきっちり公にせなあかん。責める話やない、次の答案のためです。……で、もう一つ。今この瞬間も台風二十六号が沖縄に近づいとる。テレビはね、千葉の泥の映像を流し終えたら、次は沖縄の暴風の映像に移るんです。そうやって画面が次へ行った瞬間に、千葉の片付けは『済んだ話』にされる。済んでませんよ。JRの在来線だけで三か月です。水は引いても、話を引っ込めたらあかん。これはもう決まってるんです。
話を引っ込めたらあかん、か。……ほんまやな。……今夜はな、店の氷が妙に目についてね。グラスに入れたら、黙って溶けて、黙って水になる。水いうのは本来、そういう行儀のええもんなんですよ。それが、あれだけの量で、あれだけの勢いで人の家に入っていく。……俺は酒で自分の身体を水浸しにしてきた男やから、偉そうなことは何も言えん。ただ、片付けの途中でまた泥をかぶった人らに、『がんばれ』だけは言いたないんです。もう、がんばっとるから。……言うとしたら、『とりあえず、座れるとこに座り』くらいかな。そこから先は、知らんけどな。
水は引く。けれど、話まで引かせてはいけない。
世界新の隣で、国歌を間違えた
ここからは、ちょっと肩の力を抜かせてください。名古屋でアジア大会をやっとります。……で、十七歳の大橋信くんが、二百メートルの平泳ぎで世界新記録を出した。二分四秒八三。前の記録を〇秒六五縮めた。平泳ぎで〇秒六五いうたら、もう別の生き物ですわ。……本人が『日本でやったからええ結果が出た』と言うとってね。ええ話やなあ、と思て新聞をめくったら、隣の面に『北朝鮮の国歌を流した』と書いてある。韓国の試合で、です。……俺はな、昔、自分の劇団で芝居を打っとった頃に、暗転のきっかけを照明さんが一個飛ばしたことがあってね。役者が死ぬ場面で、ぱあっと明るうなった。客席は大笑いや。こっちは冷や汗です。……ただ、あれは俺らの芝居やから笑い話で済んだ。人の国の歌は、そうはいかんのですわ。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、国歌の取り違えは、僕はまだ事故として許せるんです。人間のやることですから。……僕が許せんのは、そのあとです。組織委員会が二十二日に公式サイトで反論を出した。宿や食事の件は、組織委が原因やありません、と。……ええですか、料理屋で客の皿に髪の毛が入っとったとします。そこで板長が出てきて『その髪の毛はうちの者のやありません』と言うたら、それが仮に本当でも、もうその店には二度と行きませんよ。客にとっては、誰の髪の毛かなんかどうでもええんです。自分の皿に入っとった、それが全部なんですよ。……おもてなし、おもてなしと言うて招いたんでしょう。招いた側が最初に言うべき言葉は『うちのせいやない』やのうて『申し訳ない』です。順番を間違えとるんです。
順番、な。……それで言うと、あの十七歳の子の順番はきれいやったね。まず泳いで、記録を出して、それから『みんなに感謝』。……俺は十七の頃、何ひとつ順番どおりにやった覚えがないんですよ。学校はさぼる、ジャズ喫茶の隅でふてくされとる、で、何に感謝するかというたら、コーヒー一杯で夕方まで座らしてくれた店のマスターくらいのもんで。……ただね、あの子が『日本でやったから』と言うたのは、たぶん会場のお客さんの声のことやと思うんです。水の中まで聞こえてくる声援。運営の人らがバスを呼び損ねとる同じ建物で、客席はちゃんと仕事をしとった。……おもてなしいうのは、案外、段取りやのうて、声のほうに残っとったんかもしれんな。
上岡龍太郎 そこで僕は構造のほうを言いますよ。ええですか、日本は東京五輪までずっと、大きな催しの段取りを一つの大きな会社に丸投げしてきた。その会社が五輪をめぐる談合事件で外れた。そうしたら、手の動かし方を誰も覚えてなかったんです。……これはね、何十年も家政婦さんに家のこと全部任せとった旦那が、急にひとりで法事を仕切る羽目になったのと一緒です。座布団がどこにあるかも知らん、お寺さんへの包みがなんぼかも知らん。……で、あわてて『うちは悪うない』と言うてしまう。問題は家政婦がおらんことやない。おらんようになるまで、自分で一遍も座布団を出したことがなかったことなんです。……世界新記録を出す十七歳を育てる力はこの国にある。けど、その子の晴れ舞台を仕切る大人の筋肉は、長いこと使わんうちに落ちとった。これはもう決まってるんです。
大人の筋肉が落ちとった、か。……耳の痛い話やわ。俺なんか落ちるほうの筋肉しか持ってへんからね。……まぁでも、大会はまだ十月の頭まで続くんでしょう。芝居と一緒でね、初日にこけた舞台が千秋楽までずっとこけとるとは限らん。むしろ初日にこけた座組のほうが、楽日にはええ顔しとることもある。……問題は、こけたことを認めて、照明さんと一緒に台本を読み直せるかどうかです。『照明のせいやない』と言うてる座長の芝居は、たいてい最後までこけたままやけどな。……まぁ、世界新の子に一杯おごりたいとこやけど、十七やからな。オレンジジュースにしとくわ。知らんけどな。
水の中まで届いた声援と、会場の外で来なかったバス。同じ大会の、二つの顔。
十七歳は、名前を呼んではいけない
最後は、裁判の話です。……十八歳未満は選挙運動をしたらあかん、という決まりがあるんですよ。公職選挙法に。昭和二十七年からずっと。『誰それに入れてな』と人に頼んだら、十七歳は罰金か、下手したら拘禁刑です。……それを、高校生やった子らを含む四人が、おかしいやろ、と国を訴えた。で、東京地裁が二十五日に、それは憲法違反や、と言うた。表現の自由への重大な制約や、と。……ただ、国にお金を払えという請求のほうは退けられとる。勝ったような、負けたような判決ですわ。……俺はな、十七の頃に世の中に言いたいことが山ほどあったんです。けど、誰かの名前を挙げて『この人に入れてくれ』と言うた覚えは一遍もない。言いたいことは、たいてい、名前のないもんに向いとった。……せやから逆に、名前を挙げてまで何か言いたい十七歳がおるいうのは、俺にはちょっと眩しいんですわ。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこの話、理屈で詰めたらもう答えは出てると思いますよ。ええですか、十年前に選挙権は十八歳に下がった。高校では今、主権者教育いうて、政治に関心を持ちなさいと教えとるんです。……で、関心を持った十七歳が、ネットで『私はこの候補がええと思う、みんなも入れてほしい』と書いたら、法律違反。……野球場で考えてごらんなさい。十七歳は球場に入ってええ。試合も見てええ。拍手もしてええ。ところが、ひいきの選手の名前を大声で叫んだら退場です、と。そんな球場、誰が行きますか。……関心を持てと言いながら、関心の出口を塞いどる。これは教育やない、ただの見学ツアーです。
見学ツアー、な。……うまいこと言うわ。……ただ俺は、その一方で、大人の側の心配もちょっと分かるんですよ。大人いうのは、若い子が何かに夢中になると、すぐ『誰かに利用されとるんちゃうか』と思う生き物でね。……俺も若い頃、得体の知れん大人にいっぱい利用されましたわ。けど、利用されたおかげで覚えたこともある。酒の飲み方も、人の見分け方も、たいがいは痛い目ぇ見てから覚えた。……痛い目ぇ見る前に全部取り上げてしもたら、痛い目の見方も覚えられへんのですよ。そう考えると、この決まりは、子供を守っとるつもりで、大人の心配を守っとっただけかもしれん。……まぁ、七十年ぶんの心配やから、なかなか年季は入っとるけどな。
上岡龍太郎 そこです。僕が言うのは、その七十年のほうなんです。ええですか、この規定は一九五二年、昭和二十七年にできて、一遍も裁判所に正面から問われたことがなかった。それを動かしたのが、国会でも役所でもなく、十代の四人やということです。……ただしね、浮かれたらあきません。これは地裁の一審です。国が控訴すれば高裁、最高裁と続くかもしれん。しかも国に賠償せえという請求は退けられた。つまり判決は『この法律はおかしい』とは言うたけど、『国会がさぼっとった』とまでは言うてないんです。……ボールはね、今は国会の足元に転がっとるんですよ。拾うか、蹴り返すか、見て見ぬふりをするか。僕に言わせれば、十七歳が裁判所まで行って投げたボールを、大人が拾わんと転がしとく国は、主権者教育を語る資格がない。これはもう決まってるんです。
ボールは国会の足元、か。……拾う人がおったらええけどな。……俺はな、この四人が勝ったのか負けたのかは、正直ようわからんのです。お金は一円も取れてへん。けど、紙に『違憲』と一行書かせた。……物書きの感覚で言うたら、それはけっこうな大仕事ですよ。紙に一行書かせるいうのは、たいていの大人が一生かかってもできへんことやから。……この子らが二十歳になって、酒の飲める歳になったら、うちの店に来てほしいもんです。一杯目はこっちが持ちます。何に乾杯するかは、まぁ、その子らが決めたらええ。誰の名前を挙げても、もう誰にも怒られへんしな。知らんけどな。
拍手はよくて、名前を呼ぶのは駄目。その線を、十代の四人が裁判所に問い直した。