第十六号・値札の秋に
呼んでおいて、扉の高さを上げる
今週は、まずこの話からいきます。……十月一日から、外国の人が日本に永住したい言うた時の審査が厳しゅうなった。年収が、日本人の世帯の平均より上を続けて稼いでる人やないと、いうことでね。単身やったら四百五十万円くらいが線になる。前は三百万円あたりが目安やったそうです。手数料も一万円から二十万円に上がった。……で、ニュースで目に残ったのが、施行の前に入管の前に何百人も並んだという話でね。……俺はな、若い頃、なぜか知らん外国の人らが自分の周りに集まってくる時期があったんですよ。言葉も怪しい、金もない、けど酒の飲み方だけは世界共通でね。あの連中が『日本に住みたい』言うて役所の窓口に並ぶ姿を想像すると、……なんというか、列に並ぶいうのは、案外、心細いもんですよ。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕は感情の話より先に、この制度の理屈を見ますよ。……まず断っときますが、『不安や不公平感を感じる国民がおる』いうのは、実際にあることです。それを無視して賛成だけ言うのは、僕は断定やのうて逃げやと思う。……けどね、ええですか。人手が足りんから来てください、と呼んだのは日本です。で、呼ばれて来て、何年も働いて、税金も払うてきた人に、『やっぱり世帯の年収は平均を超えてなあきません』と言う。映画館で言うたら、客を呼び込んで席に座らせたあとに、『入場料を二十倍にしました』と言うようなもんです。しかも途中からですよ、座ったあとに。……線を引くのはええ。けど、引いた線を、もう申請して審査を待っとる人にも当てるいうのは、順番が違う。これは国の信用の話なんです。
二十倍の入場料、な。……うまいこと言うわ。……ただ俺は、年収という物差しのほうも、ちょっと気になってね。平均より稼げる人は、そりゃ偉い。けど、俺は印刷会社の頃も、劇団の頃も、平均どころか、ずっと平均の下を、ええ気分で泳いどった人間ですよ。……人間の値打ちいうのは、年収やのうて、困った時に隣の人間の肩を叩けるかどうかやないかと、まぁ、酔うたら思うわけです。……ただ、素面の人らには、そんなこと言うても通じへんのは分かっとる。国の制度いうのは、酔っ払いの理屈では動かへんからね。
上岡龍太郎 そこです。物差しの話をしましょう。年収いうのはね、景気と会社の都合で上がり下がりするもんです。本人の努力と関係なく、です。……それを、『継続して平均を上回れ』と言う。つまりね、潮の満ち引きを見て、海に立ってる人に『ずっと胸の高さを保て』と命じとるのと同じなんですよ。……それと、年金や日本語の要件が加わる。日本語ができるのは立派なことです。それを目安にするのも分かる。けど、日本人の世帯の平均というのは、日本人でも半分近くが満たせん数字ですよ。平均というのは、そういうもんです。……人手が足りん、少子化や、と言いながら、定着してくれる人の門を狭めた。これは矛盾なんです。経済界が反対しとるのも、当然や。これはもう決まってるんです。
半分が満たせへん、か。……そうやな。平均の線いうのは、引いた時点で、半分の人間を外に出す線やからね。……俺はまぁ、どっちの味方もできん男やけど、ひとつだけ言わせてもらうとね。駆け込み申請の列に並んどった人らは、たぶん、日本を好きになってしもた人らです。……好きになった人を、年収で測る。これは、恋愛でやったら、だいたいうまいこといかん。いかんのやけど、まぁ、国は恋愛やないからな。知らんけどな。
好きになった人を、年収で測る。国は恋愛ではない、とはいえ。
株は七万円の目前、電気代は過去最高
二つ並べて読むと、頭がくらくらするニュースです。……ひとつは、十月分の電気代。大手十社が全部値上がりで、全部、過去最高。東京電力の標準家庭で九千五百六十一円、前の月から千円以上上がっとる。夏の補助金が切れて、燃料も高い、ということでね。……もうひとつは株で、日経平均が六万八千円台。七万円が見えとる、と書いてある。……俺はな、若い頃、下宿の電気を止められたことがあってね。払えんかったんやなくて、払うのを忘れとったんです。真っ暗な部屋で、ろうそくを立てて、安い酒を飲んだ。そしたらこれが、えらい雰囲気がええんですよ。ええんやけど、本が読めへん。……電気いうのは、止まって初めて、自分が何に使うとったかが分かるもんですな。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこの二つの数字を並べたところに、今の日本の形が出とると思うんです。……ええですか。体温計と室温計の話をしましょう。病人の熱が、三十九度から平熱に下がった。家族が喜ぶ。けど、その部屋の暖房が止まっとったらどうですか。熱が下がったのは、元気になったからやのうて、温めてくれるもんが無くなったからかもしれん。……株は、資金の動きを見る体温計です。電気代は、暮らしの室温を見る温度計なんです。体温計だけを見て『景気がええ』と言うのは、暖房の切れた部屋で『熱が下がった』と喜んどるのと同じ。九月の東京の物価も、前の年より二・七パーセント上がった。これは数字の話で、感情の話やないんです。
体温計と室温計、な。……分かりやすいわ。……ただな、株が上がっとるのは、悪いことやないとも俺は思うんですよ。上がって喜んどる人は、そら、おる。俺は株をやったことがないから、どっちが正しいか言う資格はないけどな。……ただ、同じ国で、同じ週に、『祝杯』と『節約』が両方起きとる、というのが、俺は妙に可笑しくてね。……バーのカウンターでもあるんです。片方の客がシャンパンを抜いとる横で、もう片方が、水割りの氷を数えとる。……どっちも、同じ店の客なんですけどね。
上岡龍太郎 そこが肝心なんです。補助金いうのはね、傷口にあてた絆創膏なんですよ。貼っとる間は血が見えんから、安心する。けど、剥がした日に、傷の深さを初めて見せられる。……この補助金は夏だけの支援でした。それが十月に終わって、一斉に値段が跳ね上がった。つまり、これは『突然の危機』やのうて、最初から日付の入ったカレンダーやったんです。分かっとった話なんですよ。……それを、来週の臨時国会で、首相が所信表明演説をする。市場は『財政を広げるんやないか』と身構えとる。ええですか、広げるにしても絞るにしても、肝心なのは、『剥がす日』を最初から国民に言うといてもらうことです。剥がす日を隠して貼る絆創膏は、優しさやない、ただの先送りです。これはもう決まってるんです。
先送り、か。……それは俺の専門分野やな。『今日はやめて明日にしよう』を何年も続けた男ですから。……ただ、あれは自分の身体の話やから、勝手が許されたんです。国の財布は、そうはいかんやろな。……今夜は、店の灯りをひとつ消しときます。気分のためです。節約やないですよ。……まぁ、半分は節約ですけどね。知らんけどな。
株価は体温計、電気代は室温計。同じ週に、二つの針が逆を向いた。
メダル二六九個、見積もりのずれ百八十四億
ここだけの話、今夜は肩の力を抜かせてください。……アジア大会が、今日で終わりましたな。日本のメダルは二百六十九個。前に自分の国でやった広島の二百十八個を、五十個以上も上回った。ソフトボールは七連覇、男子バレーは銀で、四連覇のイランに及ばんかった。……ええ話です。ええ話なんですが、同じ紙面の隣に、『運営の見積もりが百八十四億円ずれとった』と書いてある。……俺はな、昔、劇団の旗揚げ公演の決算をやってね。入場料の収入より、受付のおばちゃんに出した弁当代のほうが多かったんです。あの時のおばちゃんの顔は、今でも忘れられん。……金のずれいうのは、規模が違うても、気まずさの質は一緒ですな。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、劇団の弁当代と、百八十四億円は違いますよ。……ええですか。結婚式の見積もりを想像してください。契約が六百三十万円、それが当日の請求書で八百十四万円になった。約三割膨らんだんです。新郎新婦は立派でした、ええ式でした、と言うても、それで式場に拍手する客は一人もおらん。……選手は立派やった。メダルは選手が獲った。けど、請求書は選手が書いたもんやないんです。……その書いた大人が、『いつまでも人々の記憶に残る素晴らしい大会』と総括する。これは確かに、記憶には残るでしょう。何が残るか、という問題はあるけどね。
何が残るか、な。……意地悪やなあ。……ただ俺は、バスが来んとか何とか言われた大会で、ソフトボールの選手らが七連覇を取ったという事実のほうを、先に覚えておきたいんです。大人の段取りが怪しい中で、ちゃんと勝つ。あれは、うちの劇団の役者らに見習わせたかったですよ。……舞台いうのは、照明が落ちても、役者が台詞を言えたら成立するんです。ただ、それに甘えて、照明を直さんかったら、そのうち役者がおらんようになる。……選手に甘える運営は、運営やない。ただのファンですな。
上岡龍太郎 そこを僕は構造で言いますよ。名古屋テレビの報道によるとね、専門家が現場で『誰に聞いても権限がない』という声を聞いたそうです。つまりね、責任者がおらんのやのうて、責任者の席がたくさんあって、どこも空いとったんです。……これは、山の上の神社の祭りと同じです。氏子が十人おって、全員が『神主さんが決める』と思っとる。神主さんは『氏子の総意で』と思っとる。結局、誰も御神輿の担ぎ棒を握っとらん。……大会は終わりました。次は検証です。契約の中身、なぜ積算額が変わったのか、誰が承認したのか。選手の笑顔の写真で、請求書の行方を隠したらあきません。これはもう決まってるんです。
担ぎ棒を誰も握っとらん、か。……ええ比喩やな。俺も何べんか、人生の御神輿を落としたことがあるからね。……今夜は、七連覇のソフトボールと、銀のバレーボールの選手らに、遠くから乾杯したいと思います。ビールは、あの子らがうちに来る歳になってからでええ。……それまで、俺は店を開けて待っときます。大会の請求書がどうなるかは、まぁ、知らんけどな。
表彰台の景色は、選手がつくった。請求書の中身は、誰がつくったのか。