第十七号・小さな偏りの夜に
財布を置いて、定食を頼む
今週は、まず財布の話からいきます。……九日に政府が閣議決定してね。食べ物と飲み物の消費税を、八パーセントから一パーセントに下げる、と。来年の四月から二年間だけ。消費税ができて以来、税率が下がるのは初めてやそうです。……酒は今の八パーセントでも軽減の対象外やから、今度もたぶん外でしょう。俺のガソリンの値段は変わらん。知らんけどな。……俺はな、若い頃、スーパーの閉店間際に半額シールが貼られる瞬間を、猟師みたいな目で待っとった時期があってね。店員さんの手元だけを見とる。あの目つきを、このニュースで、ふと思い出しました。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、半額シールは目の前の値段の話です。僕が気になるのは、その裏の勘定なんですよ。……食堂に入って、定食を頼んで、お勘定の段になって『財布は後で探します』と言う客を想像してください。今回、二年間で約十兆円といわれる財源の中身は、先送りです。財務大臣は『予算編成の過程で示す』と言うとる。つまり、先に食べてから、払い方を考える、と。……断っときますが、減税そのものの是非を、僕はここで断定しません。下げてほしい人が大勢おるのは事実やからね。けど、払い方を言わん定食は、客に出す前に、まず帳場に説明するもんなんです。
帳場に説明、な。……うちの店にもツケの客はおるよ。ただ、ツケにする客は、必ず『来月には』と言う。言わんツケは、俺は断る。……ただ、俺は税の仕組みを偉そうに語れる男やない。気になるのは、二年で終わるという決まりのほうでね。一パーセントの店で二年買い物をして、三年目に元の値段に戻る。……酒も、止めた日より、止めたあとのほうがしんどいんです。減税も、そうなんやないかと。……素人の勘ですけどね。
上岡龍太郎 そこは勘やのうて、構造の話です。一度下がった値段は、戻す時の痛みが、下げた時の喜びより大きい。これは経験則です。セールの最終日を想像してください。『本日で終了』の貼り紙があれば、客は走って買う。ところが翌日、元の値札を見た客は、前より高く感じるんです。人間は、元の値段やのうて、『安かった日の値段』を基準にしてしまう。……ですから、二年限定と言うなら、二年後にどうするのかを、いま言うておくべきや。超党派の会議でも、与党の一パーセント案に賛同は集まらなんだと伝えられとる。野党が財源の曖昧さを突くのは、当然の指摘です。
『安かった日の値段』が基準になる、か。……酒飲みには、痛いほど分かるわ。最初の一杯の値段は忘れても、『あの日は安かったな』だけは、なぜか覚えとる。……論戦は、これから始まるそうです。俺は、どっちの味方もせん。ただ、払い方は、客が帰る前に聞いときたい。それがバーの流儀ですから。……知らんけどな。
払い方を聞くのは、客が帰る前。それが勘定の、いちばん古い作法。
同じ形の言葉が、また並んだ夜に
今週は、軽い話から入れません。……沖縄で、アメリカ軍の兵士が、強盗殺人の疑いで逮捕されました。人が一人、亡くなっている。……俺は、事件のたびにテレビが『こうすべきだ』と即座に答えるのを見て、そんなに早う答えが出るかい、と思うてきた男です。今夜も、答えは持っとらん。ただ、ひとつだけ。人が亡くなった、という事実の前では、酒の話も、冗談も、今夜は引っ込めます。カウンターの灯りを、ひとつ落とさせてください。
上岡龍太郎 らもさん、今夜は僕も茶化しません。……まず前提を置きます。逮捕された兵士が罪を犯したかどうかは、これから司法が判断することです。容疑の段階で『犯人だ』と断じるのは、断定やのうて乱暴や。そして、沖縄にいる米兵が全員そうだ、という物言いも、論理として間違うとる。……そのうえで、僕が見るのは、事件の後に出てくる言葉の形です。首相は『残忍で凶悪』と述べ、米軍は四十八時間の活動停止を発表し、知事は抜本的な再発防止策を求めた。どれも必要な言葉です。けれど、よく似た形の言葉を、沖縄の人は、これまで何度聞いてきたでしょう。
何度聞いてきたか、な。……俺は沖縄の人間やないから、その数を数える資格はない。けど、若い頃、夜道で酔うて倒れとった俺を、見知らぬ人が、黙って家の近くまで運んでくれたことがあってね。名前も聞けんかった。……夜が安全やという感覚は、そういう、名前も知らん誰かの善意の上に載っとるもんです。それが、ある日、誰かの手で壊れる。壊されたほうは、昨日と同じ道を歩くのが怖うなる。……亡くなった方に、俺ができるのは、一杯注いで、飲まんと置いとくことくらいです。
上岡龍太郎 らもさんの話は、本質を突いとります。安全というのは、目に見えんインフラなんですよ。水道や電気は、止まったら誰でも気づく。けど、安心して夜道を歩けることは、壊れて初めて、あったことに気づく。……ですから論点を二つに分けます。ひとつは、この事件の真相と責任。これは司法の仕事で、時間をかけて、公正にやってもらう。もうひとつは、構造の問題。教育が機能していないという知事の指摘は、検証できる話です。誰が、どんな教育を、どれだけやったのか。公開で確かめる。……雨漏りのたびに、バケツを置いて『遺憾です』と言う。バケツの数は増える。けど、屋根の話が、いつまでも出てこない。僕が言うてるのは、それです。
屋根の話、な。……俺は、そこに口を出せるほど、物事を知らん。ただ、報道のほうにも、ひとつ頼みたい。被害に遭った方や、ご遺族を、必要以上に追いかけんでほしい。悲しみは、見世物にした途端、別のもんに化けてしまう。……今夜は、それだけです。答えは、まだ持っとらん。静かに飲みます。
上岡龍太郎 同感です。報道が『被害者のために』と言いながら、ご遺族の玄関に何十人も押し掛ける。あれは、報道のヘリコプターの爆音で、助けを呼ぶ声が聞こえんのと同じです。……見るべきは、事件のあとで、制度が本当に変わったかどうかです。三か月後、半年後、同じ記事を書かずに済んだか。それを確かめ続けるのが、見る側の務めなんです。これはもう決まってるんです。
注がれた一杯は、飲まれないまま置かれた。言葉より長く、そこに残るように。
ひと滴の偏りが、いのちを分けた
一転して、嬉しい話を。……今週は、ノーベル化学賞に、日本の硤合憲三さんが選ばれました。東京理科大学の名誉教授。見つけたのは『不斉自己触媒反応』……舌を噛みそうな名前ですが、要するに、できた物質そのものが、次の同じ物質を作る手伝いをする、という反応だそうです。しかも、ほんのわずかな偏りが、回を重ねるごとに、どんどん増えていく。……聞いた瞬間に、俺は思いました。それ、酒やないか、と。最初の一杯が、次の一杯を呼ぶ。俺の人生の、自己触媒反応ですわ。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、酒を化学に結びつけるのは感心せんけど、的は外してない。……ええですか。生き物の体を作るアミノ酸は、鏡に映した二種類のうち、ほとんど片方だけなんです。なぜ片方に偏ったのか、長年の謎でした。硤合さんの反応は、ほんのわずかな偏りが、自分で自分を増やして、大きな偏りになることを示した。……満員の劇場で、最初に手を叩く客は、ほんの一人です。その拍手が周りに伝わって、千人の拍手になる。最初の偏りはわずかでも、増える仕組みがあれば、世界は片方に傾く。いのちの謎の入口を、一人の化学者が、実験室の中で見せた。これは、お見事です。
最初に叩く客、な。ええ譬えや。……ただ、俺はひとつ気になってね。ニュースは、日本人の受賞が三年連続や言うて盛り上がっとる。それも嬉しいんです。けど、確か、硤合さんがこの反応を見つけたのは、今から三十年ほど前の話やそうです。……三十年。俺なんか、書いた翌週に評判が聞こえてこんと、不安で酒に手が伸びる人間ですから。待てる人は、強いなと思うんです。
上岡龍太郎 そこです。基礎研究というのは、芽が出るかどうか、本人にも分からんまま、種を蒔き続ける仕事なんです。成果が出る前に拍手する客は、まずおりません。……ですから、受賞の瞬間だけを騒ぐのではなく、芽が出る前の長い時間に、世の中がどれだけ水をやれるかが問われる。三年連続と数えて喜ぶのは構わん。けど、十年後、二十年後の受賞者は、いま誰にも注目されんまま、実験をしとるかもしれない。その事実を、忘れたらあきません。これはもう決まってるんです。
水をやる、か。……俺は水より酒をやる男やったから、育てるのは下手でした。……今夜は、硤合さんに、遠くから乾杯します。右手型でも、左手型でも、どっちでもええ。ええ酒は、どっち向きに注いでも、うまいですから。……知らんけどな。
最初の拍手は、たった一人。偏りは、いつも小さな場所から始まる。