第十八号・三万円の封筒と、置き去りの下書き
封筒の中身は、まだ白紙
先週の続きから入ります。……食べ物の消費税を下げる話に、おまけがつきました。『就業者負担軽減支援金』。舌を噛みそうな名前ですが、要は現金給付です。二千人やなくて、二千万人。ひとり平均して、年に三万円ぐらい。……三万円いうたら、うちの店では、ええウイスキーが一本買えて、おつりで氷が買える額です。ただ、俺は昔、ボーナス袋の中身を、封を切る前から全部使い終わっとった男でね。袋が薄いか厚いかより、袋が来る前に頭の中で散財する、あの時間のほうが長く楽しかった。給付いうのは、そういう『来る前』の時間も、含めて値段なんやろな、と思います。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、使い道の話をする前に、仕組みを見ましょう。政府はこの案を『一つの参考』として示した。首相も、二千万人という数字は『あくまで参考』と言うとる。……ええですか、見積書を出してきた大工が、『あくまで参考ですが、柱は二千万本です』と言うてるようなもんなんです。柱の数も、太さも、まだ決まっとらん。野党の意見も取り入れて詰める、と政府は言う。それ自体は健全です。けど、封筒の宛名だけ先に書いて、中身は後で決めるのは、順序が逆や。財源は、減税の期間は年に六千億円。ところが八パーセントに戻る三年目以降は『規模を拡大する』。拡大の財布は、どこにあるのか。そこが書いてない。
宛名だけ先に、な。……俺も原稿の締め切り前に、題名だけ立派に決めて、中身が白紙の日が何度もありました。題名が良すぎるとね、中身を書く気が失せる。『就業者負担軽減支援金』、確かに立派な題名です。……ただ、ひとつ思うのは、年収三百万円台までの人を想定しとるという話でね。いちばんしんどい層に手が届くなら、それ自体を笑う気は、俺にはない。働いても働いても楽にならん人の、夜の財布の重さは、俺も知ってる。金のない夜の、冷蔵庫の光の寂しさ、ね。
上岡龍太郎 そこは僕も異論ありません。困っている人に届く仕組みなら、必要です。論点は届き方なんですよ。同じ制度を持つ国では、就業者の三割ほどが対象になっていて、その割合を日本にそのまま当てはめた、と政府は説明している。それ、既製服の寸法なんです。体に合うかどうかは、袖を通してみんと分からん。年収の線引きが三百万円台のどこかで、一万円違うだけで貰える人と貰えん人が分かれたら、線の手前に立つ人と、一歩先に立つ人では、不満の種類がまるで違う。線の引き方は、慎重にやる。これは当然のことなんです。
線の手前と、一歩先、か。バーでも、閉店の線の前後で、客の顔が変わるからね。……二十日から国会で議論が始まるそうです。どんな封筒が出てくるか、俺は酒を舐めながら、見ときます。中身が決まる前に拍手はせん。中身が悪かったら、文句も言う。それが客の礼儀や。……知らんけどな。
封筒の中身より先に、宛名の整った手紙が届く。開ける日まで、人は少しだけ、期待して暮らす。
三位の旗が、甲子園を越えた
ここは軽い話で、一杯やりましょう。……プロ野球です。シーズン三位のDeNAが、巨人を破り、阪神も破って、日本シリーズへ。三位から行くんやから、ほとんど、終電を逃した人が、タクシー代を節約して歩いて帰ったら、一番乗りで家に着いた、みたいな話です。……俺は野球に詳しい男やないが、一つだけ知っとる。弱いと思われとる人間が勝つときの、あの球場の空気が、いちばんうまい肴になる。勝った瞬間の、うれし泣きと、負けたほうの沈黙。あれだけで、二合はいける。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、三位が勝ち上がるのは、感動の物語やない。制度の問題なんです。……シーズンを百四十試合以上戦って、順位をつける。その上で短期決戦で、もう一度勝負を決める。これは、長い小説を最後の三ページで書き換えるのと同じです。二位の阪神は、アドバンテージがありながら負けた。強いか弱いかやなくて、短期戦は、勢いと運の割合が高い。これは決まってるんです。だから、僕は、勝ち上がった側を持ち上げて、負けた側を貶める、そういう言い方をしません。
アドバンテージがあっても、勝てん日はある。酒も、強い日と弱い日がある。同じ量を飲んでも、昨日は平気で、今日は潰れる。……でもね、潰れた日の次の日に、また飲みに来る人がおる。阪神のファンも、来年また甲子園に来るんでしょう。負けた球場の帰り道の、あの重たい足取りを、俺は、嫌いやない。人が一番、本音で歩く時間やから。
上岡龍太郎 そこは同感です。ファンというのは、勝敗の消費者やなくて、負けの共同出資者なんですよ。……ひとつ言うておきます。三位からの下克上は、確かに劇的です。けど、日本シリーズの相手は、パ・リーグを5連勝のステージで制したソフトバンクです。勢いだけでは通用せん。勢いを実力に変えるには、選手層と、継投と、ベンチの判断が要る。ここからが、本当の野球の、本当の面白さなんです。三位の旗を持って、本当に頂上まで上がれるか。僕は断定しませんが、見る価値はある。
断定せんのか、珍しい。……ええ夜になりそうです。二十四日の開幕まで、ひとまず、DeNAの選手たちには、よう寝てほしい。俺は寝ずに、ひいきなしで、飲んで見ます。……勝っても負けても、うまい酒になる。そう決まっとる、というのは、俺の持論です。知らんけどな。
旗を立てた者も、倒された者も、同じ夜風に吹かれて帰る。野球の秋は、そこが美しい。
二十年の数字の向こうの、不在
今週は、重い話をひとつ。……水戸で、ネイリストの女性が、元交際相手に殺された事件があってね。裁判所が出した拘禁刑二十年の判決が、控訴されずに、十五日に確定しました。……俺は、事件のたびに答えを出したがる大人が、苦手な男です。今夜も、答えは持っとらん。ただ、亡くなった方の手は、人の爪を、きれいに整える手やった。誰かの大事な日の前に、小さな時間を差し出す仕事です。そういう手が、ある日、消えた。数字の二十年では、その手の分は、数えられません。
上岡龍太郎 らもさん、僕も今夜は茶化しません。……判決は確定した。これは動かせない事実です。事件の責任の所在は、司法が判断した。そのうえで、僕が言うのは、確定した判決の外にある問題です。ストーカー規制法違反の罪も問われた、ということは、事件の前に、つきまといの兆候があった、と読める。ここからは断定を避けますが、問うべきは、兆候の段階で、誰が、何を、できたのか。雨漏りの音がしている間に、屋根の点検が行われたのかどうか、ということなんです。
兆候の段階、か。……俺は、人の別れ話に、口を出す資格はない男です。何度も別れ、何度も縁を切られた。ただね、別れ話いうのは、二人のうちの、片方が先に終わる話で、もう片方は取り残される。その取り残された側の、夜の長さは、俺もよう知ってる。……けど、その長さを、相手の命を奪う理由にしたら、それは絶対に違う。そこだけは、酒を飲んでても、言い切れます。
上岡龍太郎 そこは、ええ言葉です。断定していい。別れの痛みは本人のものであって、相手の人生を差し出させる権利にはならない。……それから報道の側にも、言うておきます。事件が起きると、被害に遭った女性の私生活を掘り返して、『なぜ防げなかったのか』を、被害者側に探す報道が、必ず出てくる。あれは、火事で焼け出された人に、『戸締まりしてなかったでしょう』と聞くのと同じです。責任は、加害をした側にある。構造を検証するのは、制度の側、行政と警察の側です。
戸締まりは、焼け出された側の責任やない。……ええ譬えです。亡くなった方に、俺ができるのは、静かに、一杯注いで置くことくらいです。ご遺族の、今夜が、せめて少しでも、静かでありますように。……今夜は、それだけです。答えは、持っとらん。
上岡龍太郎 同感です。そして、見る側の務めは、三か月後、半年後に、ストーカー被害の相談が、どう扱われているか、確かめ続けることです。二十年という数字は、終わりやない。入口なんです。これはもう決まってるんです。
二十年という数字の向こうに、整えられた爪の色だけが、まだ残っている気がした。