第五号・捨てられん夜に
今を捨てて、遠い十月へ
膝が悲鳴あげとるから、球宴を休む、いうやろ。……俺な、この話でいっちゃん唸ったのは、あの子が自分の体の声を、ちゃんと聴いた、いうとこや。俺は逆でね。朝起きたらウイスキーをコップ一杯やらんとエンジンがかからん頃、体はとうに音をあげとった。白い便が出て、おしっこがコーラみたいな色になって、それでも机に向かって、体の声に耳栓しとったんや。体が『もう堪忍してくれ』と手ぇ挙げとるのに、こっちは『あと一枚書いてから』言うてね。あの子は、その声を、ちゃんと聴いて、いっちゃんええ舞台を自分から降りた。あれは、なかなかできる芸当やないで。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこれ、我慢の話やのうて、選択の話やと見るんです。世間はね、限界まで踏ん張るのを美談にするでしょ。逆なんですよ。いっちゃん欲しい賞を、自分の手でそっと降ろせる——それが一流の証拠なんです。サイ・ヤング賞いうたら、投げる人間なら喉から手が出るしろもんや。それを『十月のために要らん』と言い切った。手段と目的を、履き違えてへんのですよ。金を儲けたら幸せになれると信じて、青い鳥を取り逃がした国の人間とは、そこが違う。体がサインを出してから、人間は本当はまだ四倍は持つ。あの子はまだ倒れてへん。倒れてへんうちに、自分から一歩下がった。これは勇気やのうて、計算です。いっちゃん賢い計算なんですよ。間違いない。
計算か。……俺には、それがいっちゃん眩しいねん。俺いう人間はな、何ひとつ捨てられへんかったんや。酒も、締め切りも、しょうもない見栄も、全部抱えたまま、船にどんどん荷ぃ積んで、そのまま沈みかけてきた。人間な、いらんもんほど捨てられへんのですよ。好きやから抱える。抱えるから溺れる。あの子は、いちばん光ってる勲章を、平気で膝と引き換えにした。……俺やったら、たぶん勲章のほう握りしめて、膝が砕けるまで放さへんかったやろな。そこがなぁ、あの子と、俺みたいな飲んだくれの、いっちゃんの違いやわ。
上岡龍太郎 その違いはね、らもさん、実は年季の問題でもあるんです。僕は芸能界を、まだ声のかかってるうちに、自分から畳んだ人間でね。頂点で幕を引くのが、いっちゃんきれいなんですよ。ずるずる続けたら、必ず誰かに『もう終わりや』と幕を引かれる。引かれるくらいなら、自分で引け。あの子はまだ三十一やのに、一年のなかで、その小さな引き際を、何べんも上手に切っとる。今日はここまで、いう線を、痛みが出る前に自分で引ける。旅に出た人間はね、たいてい元おった場所に帰りとうなる。けど、もう帰れんと腹をくくった時に、はじめて本当の旅が始まるんです。あの子は、去年の自分にはもう帰らんと決めとる。だから毎年、別の場所まで行ける。決まってるんですよ。
帰らんと決めた者だけが、遠くへ行ける、か。……ええこと言うなぁ、今日は。まぁ、俺らみたいに何も捨てられへんかった手合いは、こうしてカウンターの隅で、捨てられる男の背中に、そっと拍手を送っとったらええんや。妬ましいような、清々しいような。……あの膝が、十月にちゃんと笑てるとええな。その日は、しらふで見よか。……いや、やっぱり一杯だけ、やらしてもらうわ。知らんけどな。
捨てられる者と、抱えて沈む者。カウンターには、二種類の人間の吐息だけが残った。
間合いが、罪になった
撮影の現場で、人と人の間合いを間違えて、大ごとになった、いう話やな。……俺な、芝居も本も、人が本気でぶつかる現場をさんざん見てきたけど、あそこは、間合いがいっちゃん狂いやすい場所やねん。熱に浮かされてるからな。俺自身、酒の勢いで、稽古場で役者に取り返しのつかん言葉を吐いて、朝、青ざめたことが何べんもある。せやから、どっちが悪玉でどっちが善玉、いう単純な札の貼り方は、俺にはでけへん。ただ、一つだけはっきりしてるのは、そこに、傷ついた人が現においてる、いうことや。まずは、その痛みのほうを、静かに見とかなあかん。理屈は、その後や。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこれを、誰か一人の善し悪しやのうて、時代の地面が動いた話やと見るんです。昔はね、楽屋いう場所があった。内と外がきっちり分かれとって、内側には内側の、それは無茶な作法があった。近づくのが礼儀、いう時代さえあったんです。柳家小さん師匠が楽屋へ来て『私は好きな人とは友達になる主義や』と、ずいと距離を詰めてきはった。あれが粋やった。ところがね、今はその内と外の壁が、根こそぎ消えた。どこもかしこも、家の中みたいに剥き出しになった。壁がのうなったのに、昔の楽屋の間合いのまま手を伸ばす人間は、必ず躓く。作法が変わったんです。時計の針が動いたんですよ。これはもう、決まってることなんです。
そやなぁ。……ただ俺が、いっちゃん背筋が寒なるのは、寄ってたかって一人を裁く時の、みんなの、あの妙に晴れやかな顔つきなんや。画面の向こうで札を投げる手ぇが、なんや、楽しそうでね。俺はな、しょうもない言葉で人を傷つけて、それで飯食うてきた男や。人を裁ける口なんぞ、一つも持っとらん。カブトビールいう、世界一まずい言われたビールに『世界が驚いたまずさ』てコピーつけて銭もろた人間やで。人を笑いもんにして生きてきた。せやから余計に、あの晴れやかな裁きの顔だけは、俺は、よう正視でけへんのや。
上岡龍太郎 そこは、僕も同じ景色を見てます。ええですか、認定するんは外部の弁護士の仕事、当人同士の始末は当人同士の仕事、司法の出番は司法の仕事。それぞれ、座る席が決まってるんです。ところが茶の間の人間だけが、招ばれてもおらんのに勝手に裁判長の席に座って、判決の上から石を積む。テレビが映した瞬間、事件も謝罪も涙も、みんな『芸能』に化けてしまう。ジャーナリズムやのうて、見世物になるんですよ。しかもね、画面の前の同情も断罪も、たいてい一日で乾く。翌朝には、みんなけろっと別の火事を探しとる。乾くもんで人を裁いたら、あかんのです。裁きは、乾かん場所でやるもんなんですよ。間違いない。
……間合いだけは、ほんまに、マニュアルにでけへんもんやなぁ。近すぎたら人は焦げるし、遠すぎたら人は凍える。その、ちょうどええ一尺が、人によって、日によって、みんな違う。難しいわ。……こうやって考えるとな、俺とあんたの間の、このカウンター一枚ぶんの距離。これがまぁ、いっちゃん罪の少ない間合いなんかもしれんな。手は届かへんけど、声は届く。……知らんけどな。
カウンター一枚ぶんの距離。近すぎず、遠すぎず。その静かな一尺を、二人は今夜も測り直していた。
自然には、頭の下げ先がない
地震が来たと思たら、今度は台風か。列島が、ずっと小さう揺れとるみたいやな。……俺な、天気図の、あの渦巻きの写真を見てると、いっつも背筋がひやっとするんや。あれには、顔がない。憎む相手も、謝ってくる相手も、おらんのや。人間いうのは、どんな不幸にも、相手が欲しい生きもんでね。悪いやつを一人こしらえて、そいつを恨んで、なんとか気持ちの帳尻を合わせようとする。ところが台風にも、地面の底にも、恨む顔がない。頭を下げてくる相手も、こっちが頭を下げる相手も、どこにもおらん。……俺は、その『顔のなさ』が、なんや、いっちゃんこわいんや。人間の、いっちゃん苦手なやつやからな。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、自然に顔がのうても、備えのほうには、ちゃんと顔があるんです。政治や、行政や、いう顔がね。ええですか、揺れるのも、吹くのも、天のしわざや。けど、そのあとの被害の、半分から先は、たいてい人のしわざなんですよ。現に、防災庁を作る、いう法律が、この期に及んでまだ国会で店ざらしになっとるでしょ。雨が降りだしてから、慌てて傘を探しに走る国。あれと同じ景色や。傘は、空が晴れてる日に買うとくもんなんです。晴れた日に、退屈な備えを地道に決めておく——それが、政治のいっちゃん本の仕事でね。揺れてから、吹かれてから、テレビの前で神妙な顔をこしらえるのは、二流のやることなんですよ。決まってるんです。
耳が痛いなぁ、それは。……俺なんか、備えいう言葉と、いっちゃん縁の遠い人間やったからな。明日のことを考えるのが、昔から苦手でね。断酒かて『今日はやめて、明日から』言うて、その明日が、また明日になって、何年も来た。人間な、遠い先の危険には、ほんまに鈍いんですよ。あれだけの揺れが来ても、山梨で百年ぶりの震度や言うても、一週間も経てば、みんな、けろっと忘れてしまう。……この『忘れる』いう才能がな、人間を、生かしもするし、殺しもする。しんどい記憶を忘れられるから、また明日も笑える。けど、こわかったことまで忘れるから、また同じ穴に落ちる。難儀な才能やで、ほんまに。
上岡龍太郎 そこですよ、らもさん。忘れる、いうのは人間の業やから、いくら『忘れるな』と説教しても無駄なんです。忘れても、ちゃんと回るように、仕組みのほうを先にこしらえておく——それが文明いうもんでしょ。一人ひとりの心がけに頼っとる国は、必ず、寸分たがわず同じ失敗を繰り返す。人間に、安定なんてもともとないんです。都会におったら海が見たなる、海のそばにおったらまた家へ帰りたなる。その、根なし草の上で暮らしとる、いう前提に立てるかどうか。当たり前の日常いうのは、実は借りもんでね。地面も、屋根も、いつ返せと言われるかわからん。それを承知で、なお淡々と備える。覚悟しなさい、いうのは、そういうことなんですよ。
……そやな。こわがりすぎず、忘れすぎず、か。難しい匙加減や。まぁ、今夜こうして、屋根のある店で、しれっと酒が飲めとる。これがな、ほんまは、ちっとも当たり前やないんやなぁ、と、その渦巻きの写真を見ながら、しみじみ思うわ。海の近くで、今まさに風の音を聞いてはる人らが、どうか無事でいてほしい。……今日は、あの人らのぶんの水を一杯、そこに供えとこか。……知らんけどな。
供えられた水のグラスが一つ、灯りの下で、遠くの風の音を静かに待っていた。