第六号・寝苦しい夜に
無敵艦隊と、神の子の夜
今夜な、地球のてっぺんが決まるらしいで。スペインの無敵艦隊と、アルゼンチンの、あのメッシいう神の子や。……俺な、こういう世界一の夜は、いっつも一人で、この店の小さいテレビで観るんが好きでね。なんでか言うたら、頂上いうのは、麓から見上げるのが、いっちゃん綺麗やからや。自分が登ってたら、足元しか見えへん。息が上がって、景色どころやない。ところが麓の酒場で、氷の溶けたグラス片手に見上げると、あの頂が、絵ぇみたいに光って見えるんや。……日本代表は、とうに山の中腹で力尽きた。けど不思議とな、悔しいより先に、あの二国の登りきった背中が、まぶしいねん。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はあの決勝を、綺麗や、で終わらせへんのですよ。ええですか、世界に何百いう国があって、そこから二つだけが、今夜あの芝生に立つ。自然界ではね、一万の種を蒔いて、生き残るのはたった一つや。残った一つが、いちばん強いに決まってる。優劣やない、それが摂理なんです。あのアルゼンチンは、二大会続けててっぺんを獲りにいく。連覇いうのはね、登るより百倍しんどい。なんでか。一度てっぺんを踏んだ人間は、もう『次はもっとええもの』を望んでしまうからです。いいものを望んだ瞬間に、人間は落ちる。今が頂点や、これからはひどいことばっかりや、と覚悟してる者だけが、もう一遍てっぺんに立てる。あの歳のメッシがまだ立ってるいうのは、そういうことなんです。間違いない。
覚悟して頂に立つ者、か。……俺はなぁ、上さん、頂上を目指したことが、たぶん一遍もないんですよ。灘の学校におった頃、いちばん頭のええ奴が、先生の『人と違うことはいけません』いう言葉を、まともに信じて頂上へ登っていきよった。俺はその横で、なんや白けてしもてね。それ以来、坂を見たら、登るより、途中の茶店でだらだら油売るほうを選んできた男や。せやから、あの芝生の上で、勝った国と負けた国が、両方おいおい泣くやろ。あの涙は、頂まで登った人間だけがもらえる涙でね。麓でグラス傾けてる俺には、一生、あの涙は流れへん。……それはそれで、ちょっと寂しいもんやで。
上岡龍太郎 その寂しさはね、らもさん、勝った側にもちゃんとあるんです。ええですか、今夜てっぺんを獲った国は、明日の朝から、もう守る側に回る。獲った瞬間が、いちばん高い場所で、あとはどう転んでも下り坂なんですよ。負けた国は明日から『次こそ』いう夢を持てる。勝った国は、その夢を、獲った代わりに手放すんです。どっちが幸せかは、僕は言いませんよ。ただ、頂上いうのは、立った者から順に孤独になる場所や。これはもう、決まってることなんです。せやから、麓であんたが油を売ってるのも、あれはあれで、一つの賢さなんですよ。
頂に立った者から、孤独になる、か。……ええこと言うなぁ、上さん。まぁ、俺は今夜も、この麓の止まり木で、勝った国と負けた国の、両方のぶんの涙を肴に、ちびちびやらしてもらうわ。しらふで観ようと思とったんやけどな……やっぱり、こういう夜は、一杯だけ、付き合わしてもらお。知らんけどな。
遠い芝生で頂が決まる夜、麓の止まり木では、氷がひとつ、静かに溶けて崩れた。
無党派という名の、引き潮
内閣の支持率が、発足して初めて五割を切った、いう話やな。……俺な、この『支持率』いう数字を見るたびに、なんや妙な気持ちになるんですよ。人の心を、パーセントにする。あんた好きか、嫌いか。それを電話やら面接やらで集めて、四十九パーセント、て小数点までつけて出す。人間の気分いうのは、ほんまはそんな、きっちりした数字と違うやろ。今朝は虫の居所が悪かった、昨日ニュースで嫌なもん見た、その程度でふらふら揺れる、潮の満ち引きみたいなもんでね。それを数字で捕まえた気になってる。……俺は、あの数字の裏で、名前も顔もない何百万人が、そっと背中を向けて歩き出してる、その足音のほうが、なんや気になるんや。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はあの数字は、風向計として、ちゃんと正直なもんやと見るんです。ええですか、政治いうのはね、半分はスプーン曲げと一緒なんですよ。ほんまに曲げる力があるかどうかは、誰にもわからん。みんなが見てない間にギュッと曲げて、『ほら曲がりました』と言うた者が、いっちゃん賢いことになる。世論いうのも、そうやって作られる面がある。ところがね、その手品が効かんようになる瞬間がくる。客が、手元をじーっと見だした時ですよ。無党派いうのはね、どの手品師にも金を払てへん、いちばん醒めた客や。その醒めた客が、四割まで引いた。これはね、政策がどうこう以前に、『はっきり物を言わん』ことに、客が飽きた、いうことなんです。『〜したいと思います』は、戦後民主主義がこしらえた、いっちゃん罪深い言い回しでね。思うだけなら猿でもできる。決めるのが仕事なんですよ。決まってるんです。
手のひらは、ほんまに、よう返るからなぁ。……俺かて、しがない物書きの端くれやけど、本が売れる時は道端で握手を求められて、売れんようになったら、同じ人がすーっと目ぇそらして通り過ぎる。人の気持ちが離れていく時いうのは、音がせえへんのですよ。喧嘩別れやったら、まだええ。怒鳴り合いの、湿った熱がある。いっちゃん怖いのは、この、音もなく、す──っと引いていくやつや。愛想が尽きた、いうより、興味がのうなった。相手にすらされてへん。……政治いうのも、いっちゃん怖いのは、叩かれることやのうて、この、静かに背中を向けられることなんかもしれんなぁ。
上岡龍太郎 そこですよ、らもさん。叩く人間はね、まだ振り向いてくれてるんです。関心があるから叩く。ほんまに終わるのは、静かに客席が空く時や。ええですか、権力の支持いうのは、もともと自分のもんやない。有権者から、ちょっとの間だけ借りとるもんなんですよ。ティッシュペーパーと一緒でね、使えるうちは使われる、使えんとなったら、あっさり捨てられる。それを『自分の実力で得た人気や』と勘違いした瞬間から、下りが始まる。四割いう数字はね、まだ底やない。底は、数字を気にせんようになった時に来る。潮が引いてることにも気づかんようになった時が、ほんまの引き際なんです。これはもう、決まってることなんですよ。
借りもんを、自分のもんと勘違いする。……こら、政治家だけの話やないなぁ。この店のツケも、俺の残り少ない肝臓も、みんな借りもんや。返せ言われたら、ぐうの音も出えへん。まぁ、引いていく潮を、無理に呼び止める呪文いうのは、たぶんこの世にないんやろ。あるとしたら……はっきり物を言うことくらいか。俺には、いっちゃん苦手な芸当やけどな。知らんけどな。
音もなく引いていく潮。呼び止める呪文を探して、二人はまた黙ってグラスを傾けた。
我慢の夏は、終わった
今年の暑さは、洒落にならんらしいな。東京で今年いちばん、名古屋は三十八度、熱中症の警報が、今年いっちゃん多い数の県に出た、いうやろ。……俺な、酒で身体を痛めつけてきた人間やから、夏になると、体がいっちゃん正直に音をあげよるんですよ。汗かいて、水のつもりでまた酒を入れて、そら身体はたまったもんやない。せやから夏の暑さには、人一倍びくびくしてきた。ただな、昔の夏いうのは、それでも、打ち水して、風鈴鳴らして、団扇であおいで、なんとか『やり過ごす』もんやった。暑さと、こう、だましだまし付き合えた。ところが今の暑さは、だませへん。まっすぐ、命を取りに来よる。……夏の顔つきが、俺が若い頃とは、まるで別もんになってしもたんや。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕が言いたいのは、まさにそこなんですよ。相手が、別もんに変わった。ええですか、昔の日本人は、暑さと我慢比べをして生きてきた。汗かいて働くのが美徳や、根性で乗り切れ、と。ところがね、これはたとえて言うたら、長年すもうを取ってきた相手が、ある日、熊に変わってしもたようなもんなんです。同じつもりで組みにいったら、命を持っていかれる。ルールが変わったのに、こっちだけ昔の作法で我慢比べを続けてる。『年寄りが冷房代をけちって倒れる』いうのはね、意志の弱さやのうて、相手がもう人間の手に負える暑さやない、いうことに、気づけてへんだけなんですよ。我慢は美徳や、いうてる間に、人が死ぬ。美徳が人を殺すんです。そら、美徳のほうを捨てなあかん。決まってるんですよ。
美徳が人を殺す、か。……俺な、若い頃、印刷会社で肉体労働しとった時期があってね。コピーライターいう仕事が、この世にあることすら知らんかった頃や。真夏の工場は、機械の熱と、インクの匂いと、汗で、そらもう地獄でね。それでも当時は、暑いなんぞ口に出したら『気合が足らん』で終わりや。ぶっ倒れる寸前まで、みんな黙って働いとった。今から思たら、あれは美徳やのうて、ただ運が良かっただけや。倒れた奴は、根性がないことにされて、そのまま消えていった。……あの頃『しんどいです』て言えてたら、助かった命も、あったんやろなぁと、この歳になって思うんですよ。黙って我慢したのを、美談にしたらあかん。あれは、たまたま死なんかっただけの話や。
上岡龍太郎 その通りなんです、らもさん。ここが肝でね。『気合が足らん』で片付けとった時代は、暑さの責任を、全部、倒れた個人に背負わせとった。根性のない奴が悪い、と。ところが相手が熊に変わった以上、これはもう、一人ひとりの心がけでどうにかなる話やない。冷房を『わがまま』やのうて『必要経費』と決める。学校も、工場も、家も、その前提で作り直す。それは政治と、社会全体の、仕組みの仕事なんですよ。個人の根性に押しつけとる限り、いちばん我慢強い、いちばん真面目な人間から、順番に倒れていく。真面目が損をする社会は、どこか設計を間違えとるんです。暑さは天のしわざや。けど、そのあと誰が倒れるかは、人間の決めた仕組みのしわざなんですよ。間違いない。
真面目な者から倒れていく、いうのはな、いっちゃん、こたえるわ。……なぁ、今日はもう、我慢の話はやめとこ。この店に来た人だけでも、暑い言うたら、遠慮のう涼んでいってほしいんや。強がらんと。冷たい水、なんぼでも出すからね。……そこの窓際、西日がきつい席の人、こっち涼しいで、おいで。まぁ、命だけは、根性でどうにかしよ、としたらあかん。しんどい時は、しんどい、て言うてええんですよ。……知らんけどな。
冷えた水のグラスが、カウンターに一つ増えた。強がらんでええ、という灯りだけが、静かに点っていた。