第九号・二度、黙祷した夏に
八十一年目の、同じ時刻に
八月六日と、九日。広島が八時十五分、長崎が十一時二分。今年で八十一年ですよ。広島の式典には、百二十三の国と地域、それにEUが代表を寄越した。過去いちばん多い。長崎にも九十八か国が来たそうや。……で、俺は先に正直なことを言うとくけどね、俺は昭和二十七年の生まれで、戦争を知らんのです。子供の時分に、夏になると学校の講堂へ集められて、被爆した人の話を聞かされた。扇風機が首を振っとるだけの、蒸し風呂みたいな講堂でね。……正直に言うと、退屈やったんですよ。早よ終わらんかな、と思とった。ところがな、おかしいのは、その退屈やったことのほうを、六十年近う経った今でも覚えとることでね。話の中身より、汗の匂いと、扇風機の音のほうを覚えとる。……人間はな、たぶんそうやってしか受け取れんのですよ。ちゃんと受け取れんかった、という形で、受け取ってしもてる。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はその退屈こそが、いちばん上等な財産やと思てるんです。ええですか、非常口の緑の灯りいうのがあるでしょ。劇場でも駅でも、いっつも点いてる。誰も見てへん。芝居の最中に非常口ばっかり見つめとる客がおったら、そらアホですよ。ところがね、あの灯りが消えとる建物で火が出た日には、何十人と死ぬんです。式典いうのは、あの緑の灯りなんですよ。毎年おんなじ時刻に、おんなじ場所で、おんなじことをやる。退屈で結構。派手にする必要はない。ただ、点いとることに値打ちがあるんです。ほんでね、今年は百二十三の国が広島へ来た。過去最多です。世界が良うなったから来たんやない。きな臭うなったから来たんですよ。非常口を確かめに来る客が増えた、いうのはそういうことです。決まってるんです。
非常口の灯り、な。……ただな、上さん。俺には一つだけ、どうにも収まりの悪いことがあってね。八十一年ですよ。九十を越えた人が、マイクの前で、自分の口で喋る。あれをあと何年見られるんやろな、と思て。……この商売を長いことやっとるとね、常連が一人ずつ消えていくのを見るわけです。最初は、来る回数が減る。次に、噂だけが聞こえてくる。ほんで、ある日から、誰も何も言わんようになる。人が消えるいうのは、そういう静かな消え方をするんですよ。爆発みたいには消えへん。……長崎の市長さんが、被爆した人の言葉を引いて『核兵器と人類は共存できない』と言うたそうやけどね。……言葉を引く、いうのはな。もう本人に喋ってもらえん時期に、こっちが入ってしもた、いうことでもあるんです。
上岡龍太郎 そこは僕、はっきり言いますよ。喋る人がおらんようになった時に残るのは、記録と、仕組みだけです。感情は必ず薄なる。これは人間の性能の問題やから、しゃあないんです。せやからこそ、仕組みの話をせなあかん。広島の市長さんは今年も、政府に対して、十一月から始まる核兵器禁止条約の再検討会議へオブザーバーで出てくれ、早よ批准してくれ、と言うた。今年『も』です。毎年言うてる。ええですか、毎年言わなあかんいうのは、毎年やってへん、いうことなんですよ。世界で唯一あれを落とされた国が、八十一年目の夏になっても、あの部屋の外に立ったままでいる。事情はいろいろあるでしょう。人の傘の下におる、いう事情もある。けどね、事情のある話ほど、言葉やのうて、席で示すもんなんです。座ってるか、座ってへんか。話はそれだけですよ。
座ってるか、座ってへんか、か。……厳しいこと言うわ、あんた。まぁ、俺にできることなんぞ、たかが知れとるけどな。……今日の十一時二分な、うちの店はまだ開いてへん時間ですよ。それでも仕込みの手ぇを止めて、一分ほど、なんもせんとおった。誰も見とらんところでやる黙祷いうのは、案外、居心地の悪いもんですなぁ。格好もつかんし、誰も褒めてくれへん。……ただな、居心地が悪いくらいで、ちょうどええんちゃうかなと思て。夏はまだ続く。今日はそれだけにしとくわ。
八時十五分と、十一時二分。夏の朝の二つの時刻だけが、八十一年、動かずにそこにある。
二年で終わる、優しさの話
五日の閣議で、食料品の消費税を一%に下げる、いうのが正式に決まったらしいで。来年、二〇二七年の四月から。ほんで、これが二年限定や。二年経ったら、また八%に戻る。足りん一%分は、中くらいから下の所得の人に現金を配って『実質ゼロ』にする、と。……なぁ、俺はコピーライターを長いことやっとった人間やからね、『実質』という二文字を見ると、体が勝手に身構えるんですよ。あれはな、書く側がいちばん助かる言葉なんです。嘘は書いてへん。書いてへんのやけど、勘定書だけは別の部屋に置いてある。……昔な、『今だけ半額』いうコピーを書かされた店があってね。その『今だけ』が三年続いたんですよ。あれは我ながら名コピーやったな。誰も文句の言いようがなかった。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はこの『二年』というところを、いちばん睨まなあかんと思てるんです。ええですか、化粧品の試供品を配るでしょ。小さい袋に入って、ええ匂いがして、使うてみたら肌の調子もええ。ところがあれはね、配る側が損してるんやないんです。配ったあとで現物を買わせるために配ってるんですよ。今度のはそれとよう似てる。二年、一%で暮らしてもろたら、人間の舌は必ず変わります。ほんで二年後に八%へ戻す──あれはね、はっきり言うときますけど、増税なんです。『元に戻すだけです』と言うでしょう。言い方の問題やない。台所から見たら、値段が八倍になるんです。減税を決めるのは誰にでもできますよ、反対する人間がおらんのやから。難しいのは戻すほうです。二年後に戻す判断ができる人間が、その時に総理の椅子に座ってるかどうか。僕に言わせればね、今度の閣議で決まったのは減税やない、二年後の宿題なんです。
宿題、な。……ただな、上さん。理屈は理屈として、うちに来る連中の話もしとくとね。この前、子供が三人おる常連の女の人がぼやいとった。米と卵と牛乳、それだけ買うても、一週間の勘定が去年と全然ちがう、と。ほんで最後にこう言いよったんですよ。『贅沢したいわけやないねん。ふつうにしたいだけやねん』と。……ふつうにしたいだけ、いうのはね、なかなかこたえる言葉でしたよ。二年限定やろうが実質ゼロやろうが、あの人にしたら、来年の四月から卵がちょっと安なる、という話でね。テレビで十兆円がどうのと言うてる横で、卵の値段の話をしとるんです。どっちが本当かいうたら、俺は卵のほうが本当やと思うけどな。
上岡龍太郎 それは僕も認めます。卵は本当です。ただねらもさん、その本当の話を人質に取るのが、政治のいっちゃん上手いところなんですよ。誰も『卵が安なるのは困る』とは言えん。言うた途端に悪者ですから。せやから、その後ろに置いてある勘定書のほうを、誰も見んようになる。二年で十兆円ほど税収が減る。赤字国債は出さん、租税特別措置や補助金を見直して工面する、と言うてはる。結構です。ほな聞きますけどね、どの補助金を切るんですか。どこの誰が損をするんですか。そこを言わんまま『工面します』いうのはね、宴会の座敷で『今日は僕が持ちます』と言うて、財布の中身を確かめてへんのと一緒なんです。その場の気分はええ。あとで揉めるだけです。消費税を入れて以来、初めての減税やそうです。歴史的なことですよ。歴史的なことほど、勘定は後から来るんです。間違いないんです。
勘定は後から来る、か。……こら耳が痛いわ。俺は勘定を後回しにすることだけで、ここまで来た男やからね。楽しいほうを先にやって、体のほうに後から請求が来る。あれ、必ず来るんですよ。しかも利子つきで。……まぁ、来年の四月に卵が少しでも安うなるんやったら、その日はうちも玉子焼きの一皿でも出すか。二年後のことは、二年後の俺が考えたらええ。……ちゅうのが、いちばんあかん考え方やというのは、この世で俺がいちばんよう知っとるんやけどな。知らんけどな。
二年という期限だけが、まだ誰の手にも渡らないまま、勘定書の隅で静かに待っている。
裁く人が、裁かれる夏
甲子園が五日に開幕してね。今年はえらい変わったことが二つあって、一つは朝と夕方の二部制が十日間に広がった。昼のいちばん暑い時間に、子供に野球をさせるのはやめとこ、と。もう一つは、女の審判が五人、全国大会に初めて入ったことです。開幕試合の二塁で塁審を務めた人は、埼玉の中学の先生で、四十九、子供が二人おるお母さんやそうな。試合が終わったあと、声が震えとったらしい。『みんなに支えられて、無事に終われました』て。……俺はな、この『無事に終われました』が、妙に耳に残ってね。うまいことやりました、やないんですよ。無事に終われました、や。……初めて何かをやる人間の口から出てくる言葉いうのは、たいていこれなんです。
上岡龍太郎 らもさんはそう言うけどね、僕はその一言で、もう答えが出てると思てるんです。ええですか、店を開けたばっかりの時分は、表に花輪が並んでるでしょ。あの花輪が枯れるまではね、誰も味の文句を言いませんのや。『おめでとう』で済んでしまう。ところが花輪を片付けた途端に、客は普通の顔をして『ここ、辛いな』と言い出す。そこでやっと、店になるんです。審判もおんなじですよ。今度、大会の三日目に、女性の審判の二塁の判定を巡って、外野がえらい騒ぎになった。ほんで出てきた声が『性別は関係ない、技術で評価しろ』やと。……僕に言わせればね、それをわざわざ口に出す人間ほど、性別を見てるんですよ。技術だけ見てる人間は、そんなことは言いませんのや。ええですか、本当に関係ない時いうのは、誰も何も言わんのです。
そら、そうやな。……この商売でも似たようなことがありますよ。新しい子がカウンターに入るとするやろ。その子がグラスを一つ割った時の、常連の顔がこわいんです。『あーあ』いう顔を、店中が一斉にする。ベテランが同じもん割ってもね、誰も顔を上げへん。『またやってるわ』で終わりですよ。……同じ音がしとるんです。同じ割れ方や。ちゃうのは、こっちの見る目のほうでね。……で、たいていの子は、そこで辞める。辞めた子のことを、店は『向いてへんかったんやろ』て言うんです。ほんまは、こっちが見すぎとっただけかもしれんのになぁ。
上岡龍太郎 その通りです。ただ僕はね、もう一つ足しときたいことがある。今度、女の審判を五人も入れたのは、平等がどうこういう綺麗な話やないんですよ。なり手が、おらんのです。暑い、金にならん、怒鳴られる。誰がやりますか。人手が足らんようになって、初めて扉が開くんです。世の中の門いうのはね、思想で開いたことは一遍もない。全部、人手不足で開くんですよ。女の人が働きに出たのも、外国の人がコンビニに立ってるのも、理屈は全部おんなじです。せやから僕は、今度のことを『時代が変わりました』いう綺麗な言葉でまとめるのは好かんのです。変わったんやない、追い詰められたんです。……ただしね、追い詰められて開いた扉でも、開いたら開いたなんですよ。あとは、そこを通った人間が何年続けるか。話はそれだけです。決まってるんです。
追い詰められて開いた扉、な。……ええこと言うわ、上さん。まぁ、あの人が来年もおんなじ場所に立って、その時に誰ももう『初の』と言わんようになってたら、それがいちばんええんちゃうかな。……ほんで、その頃には二部制も当たり前になって、『昔は昼のいちばん暑い時間に、子供に野球さしとったんやで』言うたら、若いのが気味悪がるんやろな。……人間のやることは、たいていそうやって、あとから見たら阿呆に見えるようにできとるんですよ。俺の飲み方も含めてな。知らんけどな。
初めての夏は、うまくやることより、無事に終わることで精一杯だ。それでも、次の夏は来る。